戦後75年、終戦記念日に捧げる2つの戦争映画
また8月15日、終戦記念日がやってきます。
今年は終戦からちょうど75周年という点でも、どことなく感無量なところもありますが、映画もまた数多く戦争を題材にしたものを作り続けてきています。
今回はその中から2本、戦後秘話をアメリカの側から描いた『終戦のエンペラー』と、戦場の生き地獄を描いた『野火』をご紹介したいと思います。。
終戦直後の秘話をアメリカ側から描いた
『終戦のエンペラー』
『終戦のエンペラー』は第2次世界大戦終結直後の戦勝国アメリカと敗戦国・日本の関係性をアメリカ側の視線で描いたものです。
岡本嗣郎の『陛下をお救いなさいまし』を原作に、奈良橋陽子がアメリカ映画として企画。
彼女の祖父は宮内庁職員の関谷貞三郎(映画では夏八木勲が扮しています)で、幼い頃から戦争に関する話をいろいろ聞かされていたことから、いつかこの時代を描いた映画を作ることを宿願としていたのでした。
監督は『真珠の耳飾りの少女』『ハンニバル・ライジング』などのピーター・ウェーバー。
1945年8月15日、日本は連合国に降伏し、同月30日にダグラス・マッカーサー元帥(トミー・リー・ジョーンズ)が日本に上陸。
以後、彼が率いるGHQが日本を占領することになりました。
マッカーサーはボナー・フェラーズ准将(マシュー・フォックス)に、太平洋戦争の真の責任者は誰なのかを極秘に調査するよう命じます。
折しもアメリカ本国では昭和天皇(片岡孝太郎)の戦争責任を追求・糾弾する声が高まっていましたが、そのことで日本国民から反発を受けることを避けたいマッカーサーは、本国を説得するための材料を求めていたのです。
フェラーズは戦前の日本に住み、日本文化を研究していた知日家で、開戦前の大学時代につきあっていた元恋人の島田あや(初音映莉子)のことを気にかけつつ、東條英機(火野正平)や近衛文麿(中村雅俊)、木戸幸一(伊武雅刀)らに会って聞き取りを始めていきます。
彼らの発言はことごとく日本人特有の白黒つけたがらない曖昧なもので、関与していたか否かがなかなか明確になりません。
しかし昭和天皇が閣僚や側近らに降伏の意思に同意を求めたことが終戦の決め手になったことを木戸幸一の証言で知らされたフェラーズは、確信をもってマッカーサーに報告。
もっとも、証言以外に文書などの証拠がないことから、マッカーサーは直接天皇と会談する決意を固めるのでした……。
昭和天皇の戦争責任については今なお国の内外で論議がなされていますが、ここではマッカーサーが当初あくまでも政治的手段として昭和天皇の戦争責任回避の方向へ持っていこうとしていたものの、いざ会談してみて、そのお人柄に大いに惹かれていったという説を背景に、実在したボナー・フェラーズに国境を越えたラブ・ストーリーの要素を加味させながら、日本の戦後がいかにして始まっていったのかを統治する側から描いたものです。
登場する日本人の多くが普通に英語を喋るあたりはアメリカ映画なので致し方ないところですが、日本を描いた外国映画の中では比較的フジヤマゲイシャ的な勘違い要素は少ないほうで、日本人の目から見ても好感が持てます。
また、これまでマッカーサーはグレゴリー・ペックやリック・ジェイスンなどさまざまな名優が扮してきましたが、ここでのトミー・リー・ジョーンズもなかなかの貫禄でした。
ちなみに本作に興味を抱かれたら、8月15日正午の玉音放送に至るまでの国内の動乱を描いた『日本のいちばん長い日』(1967年の岡本喜八監督版と2015年の原田真人監督版があります。双方を見比べてみるのも一興)を。
また本作の時期の直後に開廷された東京裁判の全貌を描いた小林正樹監督のドキュメンタリー映画『東京裁判』(83)なども接して見ることをお勧めします。
戦場は生地獄であることを
衝撃的に訴えた『野火』
さて、『終戦のエンペラー』は戦争に際してのトップ、つまりはお偉方らが織り成すドラマでしたが、では実際に戦場へ赴いた兵士たちはどのような運命をたどっていったのか?
その一つの壮絶かつ過酷な答えを提示してくれるのが、塚本晋也監督の『野火』(15)です。
かつて市川崑監督のメガホンで映画化された大岡昇平の原作小説を高校時代に読んで以来、これを映画化することを塚本監督は宿願としており、長年の想いがついに実っての“生地獄”の描出となります。
舞台は太平洋戦争末期の南方戦線(戯作はフィリピン戦線のレイテ島が舞台となっていますが、本作はあえてそれを明確にせず、どの地域でも起こり得ていたこととして描いています)。
主人公の田村(塚本晋也)は肺病のために部隊を追い出され、食糧不足のために野戦病院からも入院を拒絶されます。
アメリカ軍の攻撃のみならず、現地の人々が日本軍を敵とみなす中で、田村は灼熱と飢餓、そして同胞を狩ってその肉を喰らう戦友たちと対峙していく絶望の連鎖の果て、いつしか狂気の世界へと……。
今の日本映画界でこういった企画を具現化させるのは至難の業で、インディペンデントの雄でもある塚本監督もそのことは痛感しているがゆえに、腹をくくっての自主映画製作に踏み切り、これを完成させました。
低予算映画ではありますが、映像化する上での執念と、長年頭の中で培ってきた卓抜としたヴィジョンの具現化によって、鑑賞中はただただ圧倒させられます。
戦争映画の場合、主人公を戦場の英雄としてヒロイックに描くものは多数ありますが、本作は徹頭徹尾そのことを否定し、まさに戦場は地獄そのものであることを強く訴えかけています。
少なくともこの作品を見て、戦争に行きたくなるような人は皆無であろうと思われるほどの残酷さ。
要するに、戦場とは人の命が無残に奪われ、ただの肉の塊と化し腐り果てていく修羅場であることを、本作はある意味単純明快に描いているのでした。
本作は戦後70年の2015年に初公開されたものですが、塚本監督は毎年夏になると本作を持って全国各地での上映活動に勤しみ、特に戦争の知識がない若い世代に衝撃を与え続けています。
戦後75年という、ある意味節目の年に見ておくべき戦争映画として、強くプッシュしておきたいところです。
(文:増當竜也)
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