『土手と夫婦と幽霊』レビュー:記憶もあやふやなモノクロームでつづる「世界」の隔たりと彷徨
『土手と夫婦と幽霊』レビュー:記憶もあやふやなモノクロームでつづる「世界」の隔たりと彷徨
■増當竜也連載「ニューシネマ・アナリティクス」SHORT
不況の現代の中でも意欲的活況を呈し続ける日本インディ-ズ映画界から、また1本新たな秀作の登場。
第10回日本芸術センター主催映像グランプリ2018グランプリをはじめ、アメリカやロシアなど国の内外の映画祭で数々の受賞を果たしての凱旋ロードショーとなる59分の中編映画です。
小説家の「私」が記憶をうつろにしていく中で土手沿いに住む「女」の家に居座りつつ、いつしかこの世ともあの世ともつかないモノクロームの世界を彷徨し続けていきます。
観る前はもっと観念的で難解な作品かと思いきや、虚飾のないシンプルな演出タッチが功を奏して、居心地が良いのか悪いのかも定かではない「女」との生活(彼女の作る食事の本当に不味そうなこと!)、および「土手」からうかがえる川を隔てた「あちら」側と「こちら」側とでもいった感覚が、意外なまで映画的にスッと脳裏に入り込んでいきます。
さりげなくも凝ったキャメラアングルに基づく画面構図の妙や、静謐な音楽との融合もまた独自の世界観を濃密にしてくれています。
見ていくうちにふと、「生きている人は死んでいて、死んでいる人は生きている」といったキャッチフレーズで話題を集めた鈴木清順監督の名作『ツィゴイネルワイゼン』(80)のことを思い起こしてしまいましたが、あちらは絢爛豪華な絵柄でそのことを表現していたのに対し、こちらはモノクロームの静けさでそれを表現し得ている。
まさにどちらも映画的趣向の極みともいえるでしょう。
「私」役の星能豊、「女」役のカイマミをはじめ、インディペンデントの世界で活動する面々の充実した演技、そして何よりも渡邉高章監督の確かな力量と、それぞれの将来性を期待せずにはいられない秀作でもあります。
(文:増當竜也)
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