2021年08月28日

千葉真一 追悼:世界のアクション映画を変えた名優に捧げる「決まってるね、千葉ちゃん!」

千葉真一 追悼:世界のアクション映画を変えた名優に捧げる「決まってるね、千葉ちゃん!」

Embed from Getty Images

■増當竜也連載「ニューシネマ・アナリティクス」

世代的に千葉真一という映画スターの存在を知ったのは、TVドラマ「キイハンター」(68~73)からでしょうか。

まだ小学校に上がるか上がらないかの頃、毎週土曜日の夜9時だけは、なぜか親もこの番組を見せてくれ(たまにHっぽいシーンとか出てくると「寝なさい!」と理不尽に怒られたものでしたが)、そこで毎回さっそうとしたアクションを魅せてくれていたのが千葉真一であり、その意味ではウルトラマンなどとは異なる最初の生身のヒーローとして、ごくごく自然に憧れたものでした。

まもなくして彼は番組を卒業しますが、代わってトヨタ・カリーナのCMで見かける機会が多くなり、そこでのキャッチフレーズ「決まってるね、千葉ちゃん!」は今も心地よく耳に残っています……。

あの頃から、およそ50年過ぎた今、改めて映画スター・千葉真一(1939年1月22日―2021年8月19日)のキャリアを振り返ってみたいと思います。

オリンピックの夢から
ノンスタントの映画スターへ

千葉真一は福岡県に生まれ、4歳で千葉県に引っ越し(これが芸名の由来のひとつ)、中学時代から器械体操を始め、オリンピックをめざして1957年に日本体育大学体育学部体育学科に入学しますが、跳馬の練習中に負傷して1年間の運動禁止を言い渡されたことから夢を断念せざるを得なくなります

その直後、東映第6期ニューフェイス募集のポスターを偶然見かけて応募してみたところ、26,000人の中からトップの成績で合格し、大学を中退して(もっとも時を経て長年の功績が認められ、2013年3月10日に同校から特別卒業認定証が授与されています。在学中も「優」の数はかなり多かったとのこと)、1959年に東映入り。

1960年のTVドラマ「新・七色仮面」で二代目・蘭光太郎として主演デビュー。



その後も彼はTV「アラーの使者」(60)や映画『宇宙快速船』(61)『黄金バット』(66)『海底大戦争』(66)『宇宙からのメッセージ』(78)などヒーロー系を含む特撮ものの出演が結構あり、「柔道一直線」(69~71)「刑事くん」(71~76)「ロボット刑事」(73)「宇宙刑事ギャバン」(82~83)「宇宙刑事シャリバン」(83~84)などにゲスト出演することもしばし。こういったキャリアも、当時の子どもたちに鮮やかで好ましい印象をもたらしてくれていたように思えます。

映画デビューは東映東京制作の名物シリーズ『警視庁物語』シリーズの『警視庁物語 不在証明(ありばい)』(61)中川刑事役で、その後『十五才の女』(61)『十二人の刑事』(61)とシリーズに出演。

そして1961年、深作欣二監督のデビュー作『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』で彼も映画初主演を果たし、以後、深作監督を師とも恩人とも仰ぎながら映画的共闘を続けていくことにもなりました。

またこのときアクション・シーンをすべて自分でこなすという、それまでの映画業界の常識を打ち破る姿勢が、その後の彼のアクション・スターとしての姿勢を決定づけることにもなっていくのでした。
(その後、1964年のフランス映画『リオの男』でジャン=ポール・ベルモンドがスタントなしでアクションの数々を披露しているのを見たときも「我が意を得たり!」で大いに勇気づけられたとのこと)



実際、1960年代の日本映画界はアクションそのものに対する認識が薄かったこともあり、千葉真一もその個性をフルに発揮できる企画に出会える機会はなかなか少なかったのですが、そんな中での鉱脈がTV「キイ・ハンター」であり、そこで毎週彼が披露する危険なアクションの数々はお茶の間の目を大きく見開かせることになるとともに、一気に人気スターとして認知されることになっていきます。

こうした上り調子の中、中島貞夫監督の『日本暗殺秘録』(69)で血盟団テロリスト小沼正を演じて京都市民映画祭主演男優賞を受賞したことも、俳優としての彼の自信に大きく繋がったようです。

深作監督同様、中島監督もまた千葉真一のキャリアを語るときに絶対欠かせない存在です。

無料メールマガジン会員に登録すると、
続きをお読みいただけます。

無料のメールマガジン会員に登録すると、
すべての記事が制限なく閲覧でき、記事の保存機能などがご利用いただけます。

RANKING

SPONSORD

PICK UP!