<解説>映画『ジャンヌ』を読み解く4つのポイント


ポイント4:他のジャンヌ・ダルク映画との比較



ジャンヌ・ダルク映画は1898年ジョルジュ・アトー監督が制作して以降、セシル・B・デミル、ロベルト・ロッセリーニ、オットー・プレミンジャーなど様々な監督が挑み、現在までに30本以上もの作品が作られているという。

アプローチは実に様々である。

例えば、『月世界旅行』で知られるジョルジュ・メリエスの『ジャンヌ・ダルク』(1900)はジャンヌ・ダルクが神の「声」を聞いてから火刑に処されるまでの過程を10分程度でまとめている。本作では、強調したい人物やモノに対して彩色する演出が施されている。神がジャンヌ・ダルクの前に降り立つ場面では、神に緑と金の彩色を施しており、どこかイコンのような神秘さを感じる。この神秘的な神の造形は、『ジャネット』における森でジャンヌ・ダルクが神に出会う場面に影響を与えている。


『ジャンヌ・ダルク』配給:ソニー・ピクチャーズエンタテイメント

このオーソドックスな、ストーリーテリングを膨らませ冒険活劇としたのがヴィクター・フレミング『ジャンヌ・ダーク』(1948)とリュック・ベッソン『ジャンヌ・ダルク』(1999)であろう。前者は、『オズの魔法使』(1939)、『風と共に去りぬ』(1939)で培ったテクニカラーによる技法が映画を盛り上げている。王室の豪華絢爛な衣装はもちろん、夕陽を背に無数のやつれた兵士を配置することで、戦況が悪化していることを強調している。後者はVFXを効果的に活用するため、ジャンヌ・ダルクが聞いた神の「声」や他者が想像する彼女の見た世界の表現に力を入れている。この演出により、ジャンヌ・ダルクは望む真実を事実として捉えていたのではという視点が生まれているのが興味深い。

一方で、ジャンヌ・ダルクの物語をブリュノ・デュモンのように民話へ落としこんだ作品もある。ジャック・リヴェットが制作した『ジャンヌ・ダルク/I 戦闘 II 牢獄』(1994)では、ジャンヌ・ダルクが世話係、兵士をはじめとする周囲の人間からひたすら悪口を言われ、追い込まれていく様子が描かれており、5時間半に及ぶ上映時間の大半が会話劇となっている。男装をした彼女がひたすら耐え忍ぶ様子を通じて、戦争という男性社会において男装という鎧で自分を守り続ける必要があったことを示唆しているといえる。


『裁かるゝジャンヌ』(C)1928 Gaumont

また、ジャンヌ・ダルクの裁判に特化した作品もある。カール・テオドア・ドライヤー『裁かるゝジャンヌ』(1928)、ロベール・ブレッソン『ジャンヌ・ダルク裁判』(1962)がその代表であろう。前者は、裁判で詰問されるジャンヌ・ダルクの悲痛な顔を並べることで彼女の痛みに寄り添う作品となっている。本作はブリュノ・デュモン監督が一番好きなジャンヌ・ダルク映画でもある。

『ジャンヌ』でも「顔」のショットを強調することで心理的葛藤を抽出している。『裁かるゝジャンヌ』が「顔」の映画であるのに対し、『ジャンヌ・ダルク裁判』は「声」の映画になっている。牢獄を偵察に来た者に対しジャンヌ・ダルクは淡々と話をするが、顔を見せない。生気を失ったような声と彼女の冷たい姿勢、手つきから痛みを感じさせる作りとなっている。火刑の場面では、小走りで処刑台に向かう彼女の足だけが映し出される。群衆に転ばされそうになっても粛々と処刑場に向かい、叫ぶことなく死を受け入れる。痛みの解放表現としての叫びを廃することで、声も挙げられぬ抑圧を強固にしているのである。



このようにジャンヌ・ダルクの物語は、毎回監督独自の視点によって解釈、再構築されていく。ブリュノ・デュモンの場合、ジャンヌ・ダルクの物語の本質である若き女性が社会によって踏みにじられていく様子を動の存在としての『ジャネット』、静の存在としての『ジャンヌ』とまるで蝶番のような関係で構成することで、普遍的物語に落とし込んでいる。その普遍性を前に、私は大坂なおみやグレタ・トゥーンベリといった抑圧する社会と闘う者の顔を浮かべた。

社会の代表と祭り上げられるが、嘲笑と揚げ足取りによって追い込まれていく。社会の恥部をブリュノ・デュモンは告発してみせたのだ。

【関連記事】『ジャネット』解説:ヘドバンする若きジャンヌ・ダルクから見えるもの

(文:CHE BUNBUN )

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