『でっかくなっちゃった赤い子犬 僕はクリフォード』で考える多様性の在り方
M・ナイト・シャマラン映画と比べる多様性のあり方
近年は、映画も多様性やジェンダー問題を意識した作品が増えている。中には男女を入れ替えただけのリメイクもあったりする。
映画における多様性とは何か?単にアジア系の人を映画に登場させたり、マイノリティについて言及することが果たして多様性の実現と言えるのだろうか。
この疑問に答えている監督がM・ナイト・シャマランである。彼の映画には多様な人々が登場するが、その属性は対等に扱われる傾向がある。『レディ・イン・ザ・ウォーター』(06)では吃音のアパート管理人を中心に、頭脳派なアジア人女性、自堕落に生きる不良などが登場し、アパートに現れた怪奇と対峙する物語となっている。
しかし、何故主人公が吃音なのか? 何故アジア人女性が登場するのかといった理由づけはほとんど行われず、ただそこに存在する者として描かれる。
2021年に公開された『オールド』も様々な人種が困難に見舞われる話ではあるが、人種やジェンダーにまつわる会話はない。老若男女、人種等しく問題と向き合っている。現実世界も、何故その人が目の前にいるのか説明できないことが多く、そもそも説明する必要はない。同様にシャマラン作品も日常の延長として人が登場し、映画の中の怪奇にのみ集中させるのだ。これこそが映画の目指すべき多様性ではないだろうか。
このことを踏まえて『でっかくなっちゃった赤い子犬 僕はクリフォード』に戻ると、全ての人が対等にクリフォードと向き合う。義手の男も、自分なりにクリフォード救出作戦に加わり、富裕層の生徒もクリフォードの個性を見て歩み寄る。
ハワードおじさんも不器用ながらもエミリーやオーウェンと協力して窮地から脱出しようと試みる。警察も、所有権を主張する大企業社長ピーター・ティエランの発言に流されることはない。検査道具での判断をもってピーターとエミリー、どちらの主張が正しいかを判断しようとするのだ。
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