映画『ぼくらのよあけ』悠木碧が宇宙一かわいいので明日地球が終わろうとも観てほしい!
4:子どもたちのコミュニケーションの物語
ボイスキャストを力説するだけですっかり長くなってしまったが、やっと本題となる物語と、その魅力を記していこう。簡潔に言えば、あの頃に、でも大人の今だからこその、「こういうジュブナイルSF映画が観たかった」願いを余すことなく叶えてくれた、奇跡のようなアニメ映画だった。メインのあらすじは、子どもたちが正体不明の存在(というより宇宙人)を、宇宙に帰るのを手伝ってあげようとするシンプルなもの。その過程ではSF的な展開、はたまた劇場映えする美しく壮大な画、子ども心をくすぐるアクションもある。団地という狭い舞台であるにも関わらず、いや、その団地という身近な舞台を生かしたからこその、ワクワクする冒険が詰まっていたのだ。
それに付随する大きな要素が、リアルな少年少女のコミュニケーションを描いた作品であるということ。例えば、男の子たちが自分たちのチームに女の子が混ざることを快く思わないというのも、小学生ならではの“あるある”だろう。一方、ひとりぼっちでいる女の子や、それを蔑むばかりか友だちが多い自分が“有意”にいると思い込んでいる女の子もいる。そして、彼らは親たちの目を盗んで、自分たちだけで問題の解決に挑もうとするのだが、やがて「どうしようもないこと」に遭遇したりもするのだ。
過剰に相手を傷つけてしまったり、それで後悔し反省し、仲直りをしようとしたり、どうしてもうまくいかなかったり、それでも前を向こうとする心の変化は、大人であれば「あの頃」に経験したものばかりだろうし、子どもは現在進行形で誰もが直面している問題だろう。しかも、劇中ではSNSやコミュニケーションツールがある今(あるいは少し未来)だからこその、承認欲求や同調圧力への悩みも描かれており、そこでもまたリアルだと思い知らされる。
5:大人も子どもも、それぞれの視点で楽しめる理由がある
つまり、大人は「あの頃」に、子どもは「今」の、現実にある問題をつぶさに感じさせる物語でもある。その極めて内省的でミニマルな要素が、宇宙という壮大な舞台も関わるSFファンタジーと組み合わさることで、ある意味ではとてもちっぽけに、あるいは子どもたちにとっては宇宙の他のどんなことによりも重大な問題にもなるのだと、相対的に伝わってくるという構造がある、というわけだ。それを感じさせてくれた上に、その現実の問題に向き合うためのヒントがあることも、本作の大きな意義だ。団地という、多くの人が住まう場所を舞台としたことも、そのコミュニケーションの物語という側面を際立てせていたと言えるかもしれない。
しかも、本作は子どもたちが活躍するだけでなく、大人の視点も大きく物語に関わってくる。それどころか、劇中の大人たちが自分の子どもたちを、「あの頃の自分」を見ているように感じるという要素もあり、そこでもまた「かつて子どもだった大人」の心を揺さぶってくるのだ。
そもそも、原作マンガは青年誌「月刊アフタヌーン」に掲載されており、AIロボットの論考など哲学的なセリフも多く、漢字にはルビが振られてない。つまり、『ぼくらのよあけ』は元々ある程度は大人に向けて描かれた作品とも言えるのだ。
とはいえ、前述した通りメインのストーリーラインはわかりやすく、描かれている悩みは前述したように「今」の子どもに向けてのものとも言える。話されている内容は複雑でも子どもにもわかりやすく語られているし、小学校低学年くらいのお子さんくらいからなら存分に楽しめる内容だろう。
もっと言えば、大人は『スタンド・バイ・ミー』のように「かつて子どもだった大人」にこそ響く物語を、子どもは『E.T.』のように宇宙からやってきた友だちとのワクワクする冒険物語を楽しめる作品とも言えるのだ。
そして、コミュニケーションにより傷くものの、それでもなんとかしようと奮闘する子どもたちの物語に、大人も子どもも共感ができる。哲学的な思索も、子どもにも十分わかりやすく提示されていると思う。そんな「親子で楽しめる」映画として理想的な作品に仕上がっているのだ。さらに子どもたちの間だけでなく、家族間でのコミュニケーションの問題もつぶさに描かれているので、親子で観れば観賞後の会話に花が咲くだろう。
余談ながら、近未来のガジェットが当たり前の世界で、小学生の少年少女がさまざまな事態に奔走する様は、NHKで放送され、現在はAmazonプライムビデオで見放題のアニメ『電脳コイル』もほうふつとさせた。こちらが好きな方も、きっと『ぼくらのよあけ』を気に入るだろう。
さらに、SF好きが特に興味を引かれるであろう哲学的な思索として「AIロボットはウソをつけるのか?」という問いかけもある。これに対してユニークな、同時にちょっと切なくてシビアな作劇が用意されていることも、印象に残る人は多いはずだ。
まとめ:11年経って結実した、奇跡のようなアニメ映画
その他にも、映画『ぼくらのよあけ』の優れた要素は枚挙にいとまがない。映画『ちはやふる』3部作や、本作と同日の10月21日より公開の『線は、僕を描く』でも耳に残る横山克の音楽は流麗でエモーショナルだし、アニメ『デカダンス』などのpomodorosaによるキャラクター原案も、原作マンガから大胆に変更されながらもキャラクターそれぞれの魅力を際立たせている。映画館映えする「暗がり」が生きる画も存分であり、『PSYCHO-PASS サイコパス』シリーズの演出や『龍の歯医者』の総演出を手掛けてきた黒川智之監督もこれ以上のない仕事をされたのではないか。三浦大知による主題歌「いつしか」も、映画の主題を的確に捉えた名曲だ。
また、佐藤大による脚本は、情報が詰まった原作の要素をタイトにまとめ、かつ映画ならではの活劇を原作とは少し違う形で盛り込むなどの工夫もうまくできている。しかも原作にはない「団地が取り壊し予定である」という設定は、モデルとなった実際の阿佐ヶ谷住宅が建て替えられていることを受けての佐藤大によるアイデアで、原作者の今井哲也も快諾したもの。「今いる場所がいつかはなくなってしまうかもしれない」ことも、寂しさも込みのあの頃のノスタルジーを喚起させるものだった。
何より、連続したテレビアニメではなく、「映画」として観られることが嬉しい。原作は2巻で完結しており、一本の映画のボリュームでこそ観たいと思えるものでもあったからだ。そもそも原作の刊行から11年経ち、映像化できないままでもおかしくなかったのに、「知る人ぞ知る名作が今になってアニメ映画化」されるということそのものが、奇跡と言ってもいいのではないか。
ただ、正直に申し上げれば、映画『ぼくらのよあけ』は惜しいと思える部分もある。特に気になるのは、「過去に大人たちがなぜそういう判断をしたのか」の疑問に、最低限のことは示されていたとしても、十分には答えていないと感じてしまうことだ。また、とあるキャラクターに起こる大きな問題が解決しないままで終わってしまっていると、モヤモヤしてしまう人もいるのではないだろうか。
これは、原作を120分の映画に収めるための、泣く泣くのカットとも思える。だが、初めてこの物語に触れる人のためにも、個人的には優先して描いて欲しかったのだ。また、それらは原作でも少し飲み込みづらく感じていた部分ではあったので、せっかく映画にするのであれば、もっと納得度が高く、よりエモーショナルにするための、別の方法がなかったのかと、原作を後から読んだ身でも思ってしまったのだ。
とはいえ、その難点も原作を読めばある程度は納得できる部分ではあるし、そのモヤモヤや簡単に解決しないこともリアルではあるとも言える。また、原作ではより(特にAIロボットに対する)哲学的な思索や、各話の間に劇中の設定が事細かに綴られているので、あわせて読めばさらに『ぼくらのよあけ』の物語を楽しめるだろう。
何より、前述してきたような『ぼくらのよあけ』のさまざまな魅力を、ハイクオリティのアニメ映画として、何より子どもたちが、それぞれの気持ちに従って行動して、時には失敗し反省し成長し、そして宇宙人を返してあげるという心からの善意が主軸にある物語を、一気に「体験」できることそのものが嬉しく、やはり奇跡的に思えたのだ。
ぜひ、幅広い世代の方に、映画館で見届けていただきたい。ていうか、悠木碧と朴璐美のダブルインパクトのためにも観て!
(文:ヒナタカ)
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(C)今井哲也・講談社/2022「ぼくらのよあけ」製作委員会