<考察>『すずめの戸締まり』“移動”と“落下”から観る新海誠論
「細田守と新海誠の映画って何が違うの?」
もしも、あなたがこのように訊かれた際、どのように答えるだろうか?
ある程度の例外はあるが「移動の観点」からこの問いに答えることができるであろう。細田守監督作の場合、仮想世界や夢の中を中心に移動する。そのため、壮大な物語にもかかわらず実体のある世界では大きな移動が行われていないことが多い。
例えば『未来のミライ』では、4歳児くんちゃんが様々な怪奇と直面するが、実体としての彼はほとんど家から出ていない物語となっている。昨年公開された『竜とそばかすの姫』においても、終盤になるまで実体は高知県の田舎町から出ない物語となっている。実体とは一歩引いた世界から人間心理を捉えようとするのである。
新海誠監督作の場合、とにかく実体が移動する。電車・車・バイクに徒歩、あらゆる移動手段を使って移動し、人間の心理を描こうとする。確かに『君の名は。』は、別人の肉体に精神が憑依する話なため、実態が移動している物語ではないのではとの反論があるかもしれない。
しかしながら、立花瀧が宮水三葉に会いに行く場面では実態としての彼が移動している。また新海誠監督作品では、物語の重要な場面で隕石が衝突したり、主人公が高所から落下する傾向があるのも特徴的だ。
さて、新海誠監督最新作『すずめの戸締まり』が公開された。本作も例に漏れず実体が移動する映画であった。また新海誠映画において、重要な運動である「落下」に新しい観点がもたらされた。
今回は『すずめの戸締まり』を新海誠映画における“移動”と“落下”の観点から掘り下げていく。
※本記事では『すずめの戸締まり』の核心に触れるネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。
※本記事で触れる作品についても、一部ストーリーに触れているため未鑑賞の方はご注意ください。
【該当作品】
- 『秒速5センチメートル』
- 『君の名は。』
- 『天気の子』
- 『星を追う子ども』
- 『雲のむこう、約束の場所』
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1.移動は感情を熟成させる舞台装置だ!
ロードムービーは、内なる複雑な感情を整理し折り合いをつける役割がある。なぜならば、移動することで新しい景色や人と出会い、そして想定外の事件と平凡な日常では得られぬ刺激が内なる感情を刺激するためである。
新海誠監督は、ロードムービーの要素をサブジャンルとして配置する傾向がある。『秒速5センチメートル』はラブストーリーでありながら「移動」が主人公の感情の変化を指し示すギミックとして機能している。
本作は短編集となっており、ここでは「桜花抄」の章に着目する。転校をきっかけに意中の女の子・篠原明里に会おうと電車に乗る遠野貴樹。しかし、電車は大雪で停まってしまう。これは会いたくても会えないもどかしさと、好きな女の子としての像が内に留まってしまい自分の人生の歩みを阻害しているような停滞を象徴しているのだ。
『すずめの戸締まり』では、夢に出る情景の正体はなんだろうと心にモヤモヤを抱えた岩戸鈴芽が主人公となっている。彼女は謎の男・宗像草太との旅、その道中で出会う個性的な人や猫との旅を通じて、自分の果たす役割を見出すのである。
『君の名は。』『天気の子』と比べると、移動に多くの時間を費やしており、旅を通じて生まれる恋情と日本を救う必要性との間で葛藤しながらも結論を出していく。つまり、新海誠監督作品にとって「移動」とは、感情を熟成させる舞台装置として機能しているのだ。
次項では、移動による心理的変化を読み解くため、『星を追う子ども』とダンテ「神曲」を例に比較していく。これにより、新海誠監督作品における「落下」の観点が浮き彫りになってくる。
2.『星を追う子ども』と比較してみる「落下」の変容
新海誠映画において「落下」は重要な役割を担っている。『君の名は。』ではティアマト彗星の落下が三葉と瀧の絆を強固にし、そして引き裂く要因として描かれる。
『天気の子』では、廃ビルに追い込まれる森嶋帆高が鳥居を潜ると身体は遥か上空に移動し落下する。その中で天野陽菜と再会し、そして引き裂かれ、東京を大雨で水没させるトリガーとなった。
■『星を追う子ども』:3つの落下が異界への扉を開く
『すずめの戸締まり』を「落下」の観点から読み解くにあたって、重要な作品『星を追う子ども』に目を向けてみる。本作は、少女・渡瀬明日菜がある日、線路で怪物と対峙したことから異世界「アガルタ」へと導かれていく物語である。
異様な造形の怪物が迫る。線路の破片が川に落下する。これは夢ではなく現実だと突きつけられる。身動きが取れなくなっている彼女の前に少年・シュンが現れ、この怪物は撃退され、落下する。そして彼女と共に空を飛びながら着地する。3つの落下が、異界の扉を開いてしまったことを象徴するのである。
■「神曲」としての『星を追う子ども』像
明日菜は、新任教師である森崎竜司と共にアガルタを目指すこととなる。この旅は、ひたすら下へ下へと突き進んでいくものである。2人が向かう道中には凄惨な歴史による憎しみの眼差しや怪物が立ち塞がる。まるでダンテの「神曲」を彷彿とさせる物語へと発展するのだ。竜司はウェルギリウスとして、明日菜を地獄巡りへと誘う。
「神曲」の場合、ダンテはウェルギリウスの導きによって地獄を巡っていく。彼は地獄を抜けた先にある煉獄で女神ベアトリーチェと出会い、彼女に導かれるように天国を登ることとなる。
『星を追う子ども』の場合、「アガルタ」の最深部で欲望に飲み込まれそうになっている竜司の元へ明日菜が新しい仲間シンと共に現れ救い、地上を目指すこととなる。地獄の案内人ウェルギリウスとして存在していた竜司がいつしかダンテとなる。ダンテとして地獄の底を目指していた明日菜は、いつしかベアトリーチェとして竜司に手を差し伸べる存在となるのだ。
本作は、物語全体を取り巻く落下運動によって、登場人物の役割を変容させるのだ。
■水平移動の「神曲」としての『すずめの戸締まり』
『すずめの戸締まり』の物語構図は『星を追う子ども』に近い。『星を追う子ども』では、垂直方向の移動を通じて「神曲」たる世界を描いていた。一方『すずめの戸締まり』では、水平方向の移動に置き換えて「神曲」たる世界を描いている。
鈴芽は、呪いによって椅子にされてしまった草太と共に扉を締める旅へと出る。九州からひたすら北上していくのだ。とある扉が開いていると、大地震を引き起こす「ミミズ」があらわれ、災いをもたらす。その扉を締める作業は危険が伴い、彼女は幾度となく死の淵に立たされる。
鈴芽=ダンテ、草太=ウェルギリウスの構図で物語が始まるのである。拠点から拠点へと水平方向に移動するところが『星を追う子ども』と異なる。
東京に出現した巨大ミミズを鎮めると、この構図は鈴芽=ベアトリーチェ、草太=ダンテへと切り替わる。その過程はグラデーションを形成しており、ダンテからゆっくりとベアトリーチェになっていく彼女の姿が描かれる。
まず日本各地にいるミミズを封印していく前半の段階で、彼女がベアトリーチェに変容する可能性をチラつかせている。時折、椅子と化した草太に対して揺さぶったり、接吻を行おうとする。遠のく意識から彼を連れ戻す行為を鈴芽は行っている。これはベアトリーチェ的といえる。
物語の後半で鈴芽が目指した“常世”は「神曲」における煉獄ともいえる場所である。山の形をしており、山頂には草太がいる。彼は孤独や過ちに対する永遠の罰を受けるように冷凍保存されているのだ。彼女は山頂を目指し、ミミズや落石、火災が覆い尽くす空間を歩む。人々の痛みや災いに対する恐怖を抱きながら。
その光景は、煉獄編のダンテそのものである。やがて山頂に辿り着き、凍結された“椅子”を引き抜く。そして、彼を救いながら実体のある世界へと導いていくのだ。彼女がベアトリーチェになった瞬間といえよう。
■過去作と異なる「落下」の役割
『星を追う子ども』『君の名は。』『天気の子』において「落下」の表現は、もう元に戻れない状況を引き起こす装置として機能していた。
『星を追う子ども』では異世界の門が開かれてしまい、アガルタの人々や怪物の存在を受け入れざる得ない状態を発生させるために、明日菜が橋から落下する描写がある。また、ひたすら落下を繰り返しながら旅をすることで、人間は欲望と共に歩まざる得ない存在であることを示唆している。動き出した欲望を止めることは難しいと物語っている。
『君の名は。』ではティアマト彗星が落下した事実は覆ることなくその後の世界が描かれる。
『天気の子』では、帆高と陽菜の落下が与えた東京への甚大な被害を、人々は受け入れて生きている。
その点で『すずめの戸締まり』はもう元に戻れない状態を未然に防ぐ行為として落下が描かれる。東京に現れた巨大ミミズに対して鈴芽は“椅子”を突き刺す。そして、そのまま水中へと落下することで防いだ。草太の魂を救うために常世へ侵入する際も、落下のアクションを取りながら暴れ狂うミミズと対峙する。
彼女は、市民を救うよりも草太を救うことを優先している。しかし、彼女の落下は『君の名は。』『天気の子』で描かれたような災害を防いだ。
個人的な愛を運動に乗せて世界を救う新海誠作品としては『雲のむこう、約束の場所』がある。本作では、宇宙消失の危機を阻止するために、藤沢浩紀は沢渡佐由理を戦闘機に乗せて上昇していく。そして、塔を爆破することで平和をもたらした。
つまり、上昇をもって平和を与える本作と対極の作品として『すずめの戸締まり』は位置するともいえるのである。
3.新海誠監督はアニメ界のベアトリーチェとなったのか?
『すずめの戸締まり』は、ひっきりなしに災害警報が鳴り続ける映画である。しかし従来の新海誠作品と比べた際に、物語内での時間上では災害による致命的な破壊は起きていないことが分かる。この描写は新海誠監督の心理的変化によるものではないだろうか?
今まで、破壊と移動を通じて人と人との繋がりを描いてきた新海誠監督。綺麗な画とは裏腹に、ウェルギリウスがごとく観客を地獄へと導いてきた。しかし今となっては日本を代表とするアニメ監督となり、国内外から眼差しが注がれるようになった。
また、東日本大震災や新型コロナウイルスのパンデミック、ロシアのウクライナ侵攻といった災いが次々と社会を覆い尽くし、虚構が現実を侵食しつつある。災いによる心理的痛みは簡単に癒えるものではなく、共に生きる必要がある。そんな状況下でアニメ映画ができることとはなんだろうか?彼はそこを突き詰めたのであろう。
起きてしまった災いはそれとして受け止めて癒す必要があり、起こるであろう災いは未然に防ぐことが重要だと本作で説く。旅をきっかけに震災のトラウマが鮮明に蘇る鈴芽は、来る災いを阻止しながら折り合いをつける。
確かに、彼女からは日本を救う動機は見えてこない。草太への恋情でもって突き動かされるからだ。それでも災いを防ぐ行為は尊く、その行為は自分自身を救う。映画はその行為を描くことによって人々は救われるのではといった信条の下、完成した作品と考えられる。
まさしく、新海誠監督はアニメ界のベアトリーチェとして我々に救いの手を差し伸べたのである。
(文:CHE BUNBUN)
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