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2023年04月14日

没後10年——“三國連太郎”という凄い役者を体験した話

没後10年——“三國連太郎”という凄い役者を体験した話


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20年以上前、筆者が映画を生業にしようとする前のただの映画ファンだった頃に、家で時代劇専門チャンネルだったか、日本映画専門チャンネルだったかを何気なくつけたところ、とある時代劇映画の見せ場が始まっていました。

よくよく見ていると新選組の話(1969年『新選組』)で近藤勇一派による“初代局長芹沢鴨の粛清”のシーンだということがわかりました。さらに進むと近藤勇を演じているのは世界のミフネこと三船敏郎だということがわかります。

そんなミフネ近藤一派(美少年枠の沖田総司役は何と北大路欣也!?)に粛清される芹沢鴨——殺される役なのに存在感いっぱい、一体この俳優は誰なんだろう?と思って最後まで映画を見てエンドロールに出た文字が“三國連太郎”

私の世代でも『釣りバカ日誌』の“スーさん”のイメージが強かったので、三國連太郎の“世界のミフネ”を喰う勢いの強烈なアクの強さにびっくりしたものでした。

もう一つあったびっくり三國体験

2002年に九州への家族旅行のついでの単独行動で、当時開催中だった第27回湯布院映画祭に行ったことがありました。確か当時通っていた映画学校で“映画祭を企画する”という課題が出ていた時期で、参考に見学半分、観客半分くらいの気持ちで行ったものでした。

地方に根差した映画祭は数多くありますが、湯布院映画祭は老舗の部類に入る映画祭で今年も第48回の映画祭が8月末に開催予定です。

そこで観た作品が、“あんな家族こんな家族”と題された特集上映の1つで『愛人』という映画でした。後から調べると1953年の市川崑監督の映画。本作でメインの夫婦の妻に思いを寄せる青年が出てきて強烈な印象を残したのですが、その青年を演じていたのはいったい誰なのか?全く見当がつきませんでした。これもエンドロールを見てびっくり、三國連太郎でした……。

そうして「三國連太郎ってすごい人なんだ」とやっと知ったのでした。

2000年代前後の三國連太郎といえばもう大重鎮でしたが、如何せん“お爺さんのイメージ”が強かったものですから、ギラギラしたアクの強い若々しい三國連太郎をイメージできずにいたのです。

今となっては「映画ファンの風上にも置けない」と怒られそうですが……。

戦争体験を経て俳優業をスタート

『善魔』(C)1951 松竹株式会社

三國連太郎(本名 佐藤政雄)大正末期の生まれ、世代的に戦争体験者で中国に出征。戦後に復員すると、仕事を転々とした後に1950年に松竹のプロデューサーにスカウトされます。

翌年の1951年の木下恵介監督作品『善魔』で早くもスクリーンデビューを飾ります。ちなみにこの時の役名が三國連太郎で、そのまま芸名になりました。

特に1950年代~60年代の頃は、映画は“娯楽の王様”とされていて圧倒的な影響力があり、デビュー作や近い時期の作品で強烈なインパクトを残せるとそのイメージを逆利用のような形で芸名にすることで、かなりの宣伝効果が得られたのでしょう。

映画『善魔』から来た三國連太郎という名前、その流れを聞くと“一時の勢い”でつけたようでもありますが、三國自身は非常に愛着があり、最晩年には「戒名はなくていい、“三國連太郎”として逝く」と語っていたそうです。

木下恵介監督と映画『善魔』が佐藤政雄に“三國連太郎”という名前を与えなければ、ここまでの怪物俳優になっていなかったかもしれないと考えると、物事の廻り合せの不思議さを感じずにはいられません。

当時は映画が“娯楽の王様”だったと書きましたが、その分俳優や監督には大きな制約がありました。もっとも有名なものに“五社協定”が挙げられます。

当時の俳優・監督は基本的に映画製作の王手である松竹・東映・東宝・大映・日活(+新東宝)の五社のどれかに専属に近い形で所属し、他社に貸し出されることは稀でした。さらにこの協定が結ばれたことで、他所の作品に出ることはほぼほぼタブーと言ってもいい状態になりました。

映画の斜陽化やテレビドラマの普及によって70年代に入るとすぐに自然消滅するのですが、五社協定は“ある程度の仕事の保証”と引き換えに“作品選定の自由”を奪うもので、今、日本映画史を振り返る時には賛否が分かれるものです。
 
特に何かトラブルを起こして会社からフリーになった俳優は、その会社だけではなく他社も使わないという暗黙の了解のようなものがあって、苦しめられた人は少なくありませんでした。

三國連太郎もまたこの大きな仕組みに苦戦した人で、松竹を皮切りに、東宝・日活・東映と各社を渡り歩きました。時には“五社協定違反者第1号”と指定されてしまうことも。

この“五社協定”によって映画に出られなくなった俳優たちの受け皿になったのがテレビドラマです。かつて映画を盛り上げた俳優が諸々の事情でテレビドラマに活路を見出したことは、結果としてテレビドラマ出演俳優の陣容を分厚くしてくれました。

三國連太郎は各社を転々としながら、テレビドラマでも活躍することになります。古巣の松竹に本格的に復帰することになったのは1988年の『釣りバカ日誌』からと見ていいでしょう。


日本映画最後のプログラムピクチャー(毎年必ず同じような時期に公開されるシリーズもの)とされるこの『釣りバカ日誌』シリーズは一定の人気を経て約20年間シリーズが続きました。

三國連太郎はこのシリーズで西田敏行演じる“浜ちゃん”の相棒で会社の社長でもある“スーさん”を好演。三國連太郎というとこのギラギラしていない“スーさん”のイメージを持つ人も多く、私もその一人で、それゆえに本文冒頭のような“びっくり”に遭遇したわけです。

(C)2009 松竹株式会社

松竹の大人気シリーズ『男はつらいよ』が主演の渥美清の死によってシリーズを終えることになり、『釣りバカ日誌』はその跡を受け継いで“日本映画定番シリーズ”の最後の一角を担い続けました。2時間弱の人情噺を絡めた喜劇で、毎回のゲストが豪華でした。

ちなみに「釣りバカ日誌」は2015年から濱田岳主演でドラマ版が放映され、こちらの“スーさん”は西田敏行が演じるというファンサービスがありました。おそらく、テレビ東京と松竹が製作しているということで出来た粋なキャスティングでしょう。

今や息子も孫も第一線級

Ⓒ「仕掛人・藤枝梅安」時代劇パートナーズ42社

歌舞伎をはじめとする伝統芸能において世襲は目新しくありませんが、一般芸能の中で2世・3世というイメージはあまりピンとこないかもしれません。2世・3世俳優がレアケースであることの要因はさまざまある一方で、幸いにして“三國連太郎の血”は子供と孫に受け継がれています。

今となっては“三國連太郎の息子”という紹介はされない佐藤浩市。三國の晩年には親子共演も果たしています。この親子については、それだけで1本の長文コラムを書けてしまうほどです。佐藤浩市は2023年の映画だけでも『映画 ネメシス 黄金螺旋の謎』『仕掛人・藤枝梅安2』『大名倒産』『春に散る』など盛り沢山で、頼もしさにあふれるバリバリの一線級です。



テレビドラマでも毎年何本も出演している中で、2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の上総広常役は記憶に新しいところではないでしょうか?大河ドラマでいえば2004年の「新選組!」で芹沢鴨を演じたのも大きな話題になった記憶があります。

冒頭に書いた通り芹沢鴨といえば、父親の三國連太郎が強烈な印象を残した役だったため、それに挑むという間接的な父親越えへの挑戦に見えました。



その佐藤浩市の息子が俳優の寛一郎。2017年の俳優デビュー後も(今もそうですが)あまり父や祖父について言及していません。とはいえ『一度も撃ってません』や今年公開の『せかいのおきく』では父親の佐藤浩市と共演していますし、同じ場面には映りませんでしたが「鎌倉殿の13人」にも出演するなど父と名前が並ぶことも。

寛一郎本人の努力と作品選びの巧さもあって、20代半ばで早くも若手個性派俳優としての地位を築きつつあります。そして父親(佐藤浩市)を引き合いに出されないことも本人にはストレスなくて良いと思います。

俳優は“個人仕事”であるとはいえ、どうしても“血の繋がり”に目が行ってしまうことも多いでしょう。足かせにもなり得るその繋がりを、佐藤浩市は乗り越え、寛一郎は縛られずにやっています。

2人の活躍を見る時に、意識して“三國連太郎という怪物”の影を追わなくて良いと思いますが、その一方で時々“その影”を感じるのも楽しいかもしれません。

今年は三國連太郎の没後10年、いいタイミングかもしれません。

(文:村松健太郎)

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