©西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト
©西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト

映画コラム

REGULAR

2024年01月18日

映画『傷物語 -こよみヴァンプ-』唯一の大きな不満と「自己犠牲」にまつわる物語を解説

映画『傷物語 -こよみヴァンプ-』唯一の大きな不満と「自己犠牲」にまつわる物語を解説



自己犠牲かつ、自己満足の物語

©西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト

中盤で、羽川翼は「自己犠牲なんかじゃない。自己満足」「私くらい自分のことしか考えていない人間はいないと思う」などと阿良々木暦に告げる。これは、まさに暦によるラストの決断と同じ心情だ。

吸血鬼のキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード(以下、キスショット)は、吸血鬼狩りのギロチンカッターを殺し、自身が「人間を喰らわなければ生きていけない」ことを暦に見せつける。だが、それは最終的には暦に自身を殺させ、人間へと戻すための手段であったとも、暦は知る。

そのキスショットは、400年ほど前に「太陽の下に身を投げて、これみよがしに見せつけながら自殺した眷属」のことを話していた。そのキスショットは、序盤に同じように(誤って)太陽の下に出て焼かれる暦を助けていた。暦に自身を殺させて人間に戻そうとしていたのは、その過去の眷属の自殺と、彼を人間に戻してあげられなかったことを悔いていたからでもあるのだろう。

©西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト

だが、暦はそんなキスショットの望みを叶えない。キスショットは「吸血鬼の残りかす」のような存在として、暦も完全に人間には戻らない「人間もどきの吸血鬼のごとき存在」として生きることを選択する。まさに忍野メメの言う「みんなが不幸になる方法」を選んだのだ。

それが羽川の言う「自己犠牲なんかじゃない。自己満足」であることは、最後の暦の「好きでやっていることなんだから」という言葉で証明される。忍野の言う「言わばペットとして吸血鬼を飼うことを選んだ」「さして美談でもないね」も、その通りだ。

だが、暦の選択は、みんなが不幸になったとしても、これ以上誰も死なさせないという、とても尊いものでもあったと思う。

©西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト

羽川もまた「自殺は罪だよ」に加えて、「(阿良々木君は)自分が死ぬのはいいけれど、人が死ぬのは気分が悪い」とも言っていた。キスショットが人間を喰らう様を見せつけ、暦に殺させようとするのは、それこそ自殺と変わらないだろう。そして、「自殺および誰かを死ぬを阻止する」ことだけが暦の望みであったのだ。

とはいえ、「キスショットおよび暦が、これから吸血鬼に戻って人を食べるかもしれない」のも事実。真にこれ以上の犠牲者を出さないためには、それは間違った選択でもあり、やはり自己満足そのものだ。

だが、「目の前の大切な人を死なせない」というたったひとつの大きな望みは、何よりも優先されるものでもあるだろう。しかも、暦は完全に人間へと戻らないという方向で自分を犠牲にはしたものの、自殺という意味での自己犠牲を払うことはしていないし、キスショットにもそうさせなかった。この『傷物語』は「自己犠牲」と「自己満足」の両方を有する選択をすることの危うさと尊さを描いた作品とも言えるだろう。

この物語を追えば、暦の選択を完全に否定することはできないだろう。ここまで極端な出来事ではなくても、人生において「自己犠牲」と「自己満足」の両方を有する、そのバランスを考えての選択をすることは、誰にでもあるはずだ。そして、暦がこの選択をしたことに対して、単純には言語化できない人間の「業」、はたまたそれ以上の何かを受け取れることに、意義のある物語だったと思うのだ。

そして、今回の映画で前述したようにカットがされつつも、一気に観られる映画となったことで、その『傷物語』の意義を今一度確認できたことを感謝したい。そして、原作小説では(モノローグをなくした今回の映画でも伝わってはいるものの)、より詳細な繊細かつ大胆な暦の心情が綴られているので、ぜひ合わせて読んでみてほしい。

(文:ヒナタカ)

無料メールマガジン会員に登録すると、
続きをお読みいただけます。

無料のメールマガジン会員に登録すると、
すべての記事が制限なく閲覧でき、記事の保存機能などがご利用いただけます。

©西尾維新/講談社・アニプレックス・シャフト

RANKING

SPONSORD

PICK UP!