映画という時代の記録の中で、桃井かおりほど鮮烈な存在感を放つ女優は稀有だろう。天真爛漫でありながら、どこか冷めた眼差しを持ち、時代の空気を体現する存在。
そんな彼女のキャリアの中から、今回は6本の作品を通して、その表現の幅と深化を辿る。
女優・桃井かおりが映画の中でどんな軌跡を描いてきたのか──今改めて、その足跡に目を向けたい。
『神様のくれた赤ん坊』(1979年)──笑いと涙のロードムービー、そして“家族”の再定義

(C)1979 松竹株式会社
見知らぬ子どもと共に突然始まった“父親探し”の旅。それは、若い男女にとって、自分のルーツと向き合う旅でもあった──。
東京で同棲中の森崎小夜子(桃井かおり)と三浦晋作(渡瀬恒彦)の元に、ある日見知らぬ女が訪ねてくる。そして突然、手紙とともに小学生の少年・新一を置いていく。手紙には、5人の男性の名前と住所、そして「この中に新一の父親がいる」という驚くべき内容が記されていた。

(C)1979 松竹株式会社
あまりに唐突な展開に戸惑う小夜子と晋作だが、晋作は新一を連れてその“父親候補”を巡る旅に出ることを決意。小夜子も、自身のルーツを辿るためにその旅に同行する。
物語は、尾道、別府、天草、長崎、唐津、北九州へと続くロードムービーの体裁をとるが、その本質は、家族、愛、過去と向き合う人々の人間ドラマにある。桃井かおり演じる小夜子は、旅の中で初恋の記憶や母の面影と出会いながら、忘れていた感情と再会していく。
時にユーモラスに、時に切なく。桃井の演技は、感情の起伏を極めて自然に、しかも繊細に表現している。特に、母の故郷・天草で「島原の子守唄」を新一に聞かせながら涙を浮かべる場面は、彼女の演技の真骨頂と言えるだろう。過去と向き合い、未来への一歩を踏み出す小夜子の姿に、観客は自らの記憶を重ねてしまう。

(C)1979 松竹株式会社
渡瀬恒彦の“だらしなくも憎めない”キャラクターも秀逸で、桃井との軽妙な掛け合いが全編を通して心地よいリズムを生んでいる。また、正司歌江、森本レオ、吉行和子、小松政夫、樹木希林らが脇を固め、映画に温かみとリアリティを加えている。
“誰かの父親探し”は、気づけば“自分自身との対話”へと姿を変える。人生の旅の意味を、そっと問いかける一作だ。
『ええじゃないか』(1981年)──狂乱の中に見える、女の自立と祈り

(C)1981 松竹株式会社/株式会社今村プロダクション
今村昌平監督が初めて挑んだ時代劇。舞台は幕末、江戸の下町と地方を股にかけた一大群像劇だ。桃井かおりが演じるのは、貧しさから江戸へと身売りされた芸人イネ。彼女は、アメリカから密航して帰国した夫・源次(泉谷しげる)と再会するも、過酷な運命に翻弄されていく。

(C)1981 松竹株式会社/株式会社今村プロダクション
この作品は単なる歴史劇ではない。市井の人々──芸人、遊女、浪人、商人──が翻弄される社会構造と、人々の欲望や絶望、怒り、そして希望が交錯する様を、骨太な筆致で描き出す。桃井演じるイネは、女性として、芸人として、そして一人の“民”として、時代に抗い、そして呑まれていく。
桃井かおりの真骨頂はここにある。華やかな芸を見せるかと思えば、家族を失った悲しみに崩れ落ちる。喜怒哀楽がすべて舞台の上で交錯し、そのすべてを自然体で演じ切る姿には、ただただ圧倒される。

(C)1981 松竹株式会社/株式会社今村プロダクション
物語の終盤、「ええじゃないか」と民衆が叫びながら踊り狂うクライマックスは、日本映画史に残る名場面。混沌の時代に生きる民衆の叫びと、そこに紛れ込むイネの姿が交錯し、観客は歴史の一瞬に立ち会ったような錯覚を覚える。
(C)1981 松竹株式会社/株式会社今村プロダクション
『疑惑』(1982年)──“毒婦”と呼ばれた女が、法廷で魅せた真実と虚構

(C)1982 松竹株式会社
港で起きた不可解な自動車転落事故。生き残ったのは、前科四犯の女・白河球磨子(桃井かおり)──そして死んだのは、巨額の保険をかけられた夫。世間とマスコミは一斉に彼女を「北陸一の毒婦」と糾弾するが、彼女の弁護人として現れたのは、民事専門の女性弁護士・佐原律子(岩下志麻)だった。

(C)1982 松竹株式会社
表面的には粗野で挑発的、しかし内側には複雑な過去と悲しみを秘めた球磨子。桃井かおりの演技は、見る者の“偏見”を一つずつ崩していく。傍若無人な態度の奥にある、理不尽な運命と、自分を守るために牙を剥くしかなかった女の姿。
裁判が進む中、弁護士・佐原は球磨子に“人間”としての真実を見出していく。2人の対立と信頼、緊張と共鳴が交差する法廷劇は、単なる推理ドラマの枠を超えた、人間の尊厳と救済を描いた物語だ。

(C)1982 松竹株式会社
桃井の持つ生々しいリアリズムが、この“毒婦”に血を通わせる。映画を見終えた後、その“疑惑”は、観る側の心の中にも芽生えるだろう──私たちは、彼女の何を見ていたのか、と。
(C)1982 松竹株式会社
『われに撃つ用意あり』(1990年)──歌舞伎町の闇に光る、反逆の魂

(C)1990 松竹株式会社
若松孝二監督が描いたハードボイルドアクション。
新宿・歌舞伎町を舞台に、偽造パスポートで日本に入国し働くベトナム系華僑・メイラン(ルー・シュウリン)が、ヤクザの組長を射殺し、裏社会に追われる物語。
彼女をかくまい、逃亡を助けようとするのが、バーの店主・克彦(原田芳雄)と、かつての恋人・律子(桃井かおり)たちだった。

(C)1990 松竹株式会社
この作品の魅力は、都市の片隅で生きる人々の熱と矜持。
克彦と律子はかつて学生運動を共に戦った戦友であり、かつての理想を忘れずにメイランの逃亡を支援する。
その律子を演じる桃井かおりは、時代に翻弄されつつも、信念を捨てない女として強烈な印象を残す。
かつての闘志を今に受け継ぐような台詞の数々には、静かな怒りと深い愛情が同居している。

(C)1990 松竹株式会社
過去と現在が交差する歌舞伎町の夜。
銃声の向こうに見えるのは、諦めない者たちの生き様だ。
『東京夜曲』(1997年)──静かに揺れる感情の余韻。音楽のような愛のかたち

(C)1997 株式会社衛星劇場
下町の商店街を舞台に、数年前に家を出た浜中康一(長塚京三)が帰郷したことから静かに動き出す、人々の記憶と感情の再編成。
桃井かおりが演じるのは、康一のかつての恋人であり、今は亡き大沢の妻・たみ。

(C)1997 株式会社衛星劇場
たみは、過去と現在、愛情と憐れみ、そして後悔の狭間で生きる女性だ。
表面的には穏やかな表情の裏に、どうしようもない寂しさと揺れる想いを抱えている。
その微細な感情の機微を、桃井は抑制の効いた演技で丁寧に紡いでいく。

(C)1997 株式会社衛星劇場
映画全体がまるでクラシック音楽のように静かに流れ、派手な演出は一切ない。
しかし、その静けさの中で、心がふるえる瞬間が確かにある。
過去と未来の間に立ちすくむ登場人物たちの姿が、観る者にとっても“自分の人生”を重ねる鏡となるだろう。
『終戦のエンペラー』(2012年)──“歴史”と“愛”のはざまで揺れる男の決断

(C)Fellers Film LLC 2012 ALL RIGHTS RESERVED
第二次世界大戦の終結とともに、日本はアメリカの占領下に置かれる。
1945年8月30日、GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサー(トミー・リー・ジョーンズ)が厚木に降り立ち、日本の統治が本格的にスタートした。
占領政策の第一歩として、アメリカ政府内外では「昭和天皇を戦犯として裁くべきか否か」が最大の焦点となる。
本作は、その重大な命題に真正面から挑みながら、ひとりの男の心の葛藤を描いた異色の歴史ドラマだ。

(C)Fellers Film LLC 2012 ALL RIGHTS RESERVED
物語の主人公は、知日派のアメリカ陸軍准将ボナー・フェラーズ(マシュー・フォックス)。マッカーサーの命を受け、彼は昭和天皇の戦争責任の有無をたった10日間で調査せよと命じられる。
東条英機、近衛文麿、木戸幸一、関屋貞三郎ら、当時の政権中枢にいた人物たちから証言を引き出し、日本が戦争へと突き進んだ理由、そして天皇の意志がどこまで関与していたかを探る。
一方で、彼にはもうひとつの目的があった。
かつて日本の大学に留学していた際に恋に落ちた女性・島田あや(初音映莉子)の消息を追っていたのだ。
やがて、空襲で彼女が命を落としていたことを知ったフェラーズは深い悲しみに沈むが、それでも任務をまっとうしようとする。
捜査の果てに見えてきたのは、天皇が日露戦争の御製を引用して戦争に慎重な姿勢を示していたこと、そして戦争終結に際しては側近たちに「降伏を支持してほしい」と“願った”こと──直接的な命令や明言ではなく、「ほのめかし」と「空気」で意思を伝える日本独自の政治文化が、彼の調査の行方を大きく左右していく。
証拠書類はなく、証言の積み重ねだけで真実を導かねばならないなか、フェラーズは確信を得る。そしてマッカーサーに報告を提出するが、決定的証拠を欠く報告書に不満を見せながらも、マッカーサーはある決断を下す──天皇との会談である。
会見は皇居ではなく赤坂の米国大使公邸で行われた。
日本人が決して口にしなかった“戦争責任”について、昭和天皇は静かに語る。
「全責任は私にある。国民には罪はない」。
この言葉に、マッカーサーは「罰するのではなく、再建に力を貸してほしい」と応じ、天皇の戦犯訴追を回避する方針が定まる。
日本とアメリカ、両国にとって大きな転換点となる瞬間だ。
桃井かおりは、フェラーズの調査の過程に深く関わる日本人女性・鹿島夫人として登場。
天皇制の根幹に触れる繊細な物語において、桃井の演技は控えめでありながら芯の通った存在感を放つ。
外国人俳優との共演、英語による演技という異なるフィールドにおいても、彼女はまったく臆することなく日本人女性の知性と品格を体現している。
本作は、史実を軸としながらも、フェラーズと島田あやの恋というフィクションを織り込むことで、戦争の“記録”ではなく“記憶”として、観客の心に届く作品に仕上がっている。
(C)Fellers Film LLC 2012 ALL RIGHTS RESERVED
永遠に予測不能な女優、それが桃井かおり
桃井かおりの映画を観ていると、ジャンルという枠組みが意味をなさなくなる。
彼女がスクリーンに現れると、そこには桃井かおりだけの「現象」が立ち上がる。
その場の空気を変え、言葉にならない感情を観客に突きつけてくる。
そして、作品が終わった後も、観る者の中でその余韻が続く。
唯一無二の表現者、桃井かおり。
その魅力を知るための第一歩として、今回紹介した6作品を改めて観ることを、心からおすすめしたい。

(C)1982 松竹株式会社
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『神様のくれた赤ん坊』
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『終戦のエンペラー』
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