夏目雅子が“永遠”になった映画。『時代屋の女房』と、もうひとつの『時代屋の女房2』

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古いものを売る店には、たいてい少しだけ時間が溜まっている。
東京・大井町の片隅にある骨董屋「時代屋」。

そこにふらりと現れ、いつの間にか店主・安さんのそばにいるようになる女、真弓。

彼女は過去を語らない。

どこから来たのか、なぜここにいるのか、またいつ消えてしまうのかもわからない。
けれど、その曖昧さこそが、この映画を忘れがたいものにしている。

1983年公開の『時代屋の女房』は、村松友視の直木賞受賞作を映画化した松竹作品。
監督は森崎東、主演は渡瀬恒彦と夏目雅子。
人情喜劇と呼ぶにはどこか寂しく、恋愛映画と呼ぶにはあまりに風通しがよく、昭和ノスタルジーと片づけるには人間の孤独が生々しい。

そして1985年には、古谷一行と名取裕子を迎えた『時代屋の女房2』が作られた。
こちらは長尾啓司の監督作。
主要キャストも監督も変わった続編でありながら、同じ「時代屋」という場所を通して、前作とは違う人間模様を浮かび上がらせている。

今回は『時代屋の女房』と『時代屋の女房2』を、2本続けて観ることで見えてくる魅力から紹介したい。

『時代屋の女房』は、“消えてしまう女”を追いかける映画ではない

©1983 松竹株式会社 

『時代屋の女房』の真弓は、不思議な女性である。

突然現れ、安さんの生活に入り込み、店の女房のように振る舞う。
だが、映画は彼女の正体を説明し尽くそうとはしない。
むしろ、真弓が何者なのかを明らかにすることよりも、彼女がそこにいるだけで「時代屋」という場所の空気が変わっていくことを丁寧に映す。

夏目雅子の魅力は、ここで最大限に生きている。
彼女はただ美しいのではない。
そこにいるのに、どこかもう遠くへ行ってしまいそうな人として画面に立っている。
微笑んでいるのに、心の奥までは見せない。
安さんに寄り添っているようで、最後の最後では誰のものにもならない。

©1983 松竹株式会社 

この“つかめなさ”が、真弓という人物を単なるマドンナにしていない。
安さんにとって彼女は恋の相手であり、生活の同居人であり、同時に、失われた時間そのものでもある。

渡瀬恒彦の安さんがいい。強くない男の、なんともいえない色気

渡瀬恒彦が演じる安さんは、派手な主人公ではない。

骨董屋を営み、近所の人々と付き合い、酒を飲み、何かを強く主張するでもなく日々を送っている。
けれど、彼の中には不思議な包容力がある。
真弓が過去を語らなくても、深く問い詰めない。
いなくなっても、怒鳴り散らさない。
戻ってくれば、また受け入れる。

この「問い詰めなさ」は、優しさであると同時に、どこか諦めにも似ている。
安さんは、相手を所有できないことを知っている男なのだ。

渡瀬恒彦の芝居は、そこを実に自然に見せる。
男らしさを誇示しない。
弱さを過剰に見せることもしない。
ただ、真弓が隣にいる時間を、そのまま受け止めている。
だからこそ、彼女がいない時間の寂しさが滲む。

『時代屋の女房』は夏目雅子の映画として語られやすい。
もちろんそれは間違いではない。
だが同時に、渡瀬恒彦の“待つ男”としての魅力があってこそ成立している映画でもある。

©1983 松竹株式会社 

森崎東が撮ったのは、恋愛ではなく“町の孤独”だった

森崎東監督のまなざしは、人間をきれいに整えすぎない。

『時代屋の女房』には、喫茶店、飲み屋、クリーニング店、近所の人々といった、安さんと真弓を取り巻く生活圏がある。
彼らは物語の背景ではない。
むしろ、この映画の本当の主役は、そうした町の空気かもしれない。

誰もが少しずつ寂しい。
誰もがどこか滑稽で、誰もが何かを抱えている。
けれど、映画はその寂しさを声高に訴えない。
笑いの中に混ぜる。
日常の会話の端に置く。
酒場のざわめきや、店先のやりとりの中に紛れ込ませる。

だから『時代屋の女房』は、観終わったあとに妙な余韻が残る。
大きな事件が起きたというより、もう戻らない時間の中を少しだけ歩いたような感覚がある。

「時代屋」という店名が象徴的だ。安さんが売っているのは骨董品だが、映画そのものが売っているのは、モノではなく時間である。誰かの手を渡ってきたもの。誰かが置いていった記憶。もう戻らないが、完全には消えていない気配。

この映画は、そうした“残り香”を撮っている。

©1983 松竹株式会社 

『時代屋の女房2』は、同じ場所に別の温度を持ち込んだ続編

©1985 松竹株式会社 

1985年公開の『時代屋の女房2』は、前作と比べると非常に興味深い作品だ。

主人公の安さんを演じるのは古谷一行。
真弓を演じるのは名取裕子。
監督は長尾啓司。
前作の渡瀬恒彦、夏目雅子、森崎東という座組から大きく変わっている。

そのため、『2』は単純に「前作の続きを同じ味で楽しむ映画」ではない。
むしろ、同じ店名、同じ関係性を借りながら、まったく別の呼吸を持った作品として観るほうが面白い。

古谷一行の安さんは、渡瀬恒彦版よりも柔らかく、生活に馴染んだ大人の男として見える。
名取裕子の真弓は、夏目雅子版のような幻のような存在感とは異なり、より現実の女性としての輪郭を持っている。

©1985 松竹株式会社 

つまり『時代屋の女房2』では、真弓は“消えてしまいそうな女”というより、関係の中で揺れる女として立ち上がる。
そこに加藤健一演じる谷村という存在が加わり、前作よりも人間関係の緊張が前面に出てくる。

2本を比べると、見えてくるものがある

『時代屋の女房』と『時代屋の女房2』は、優劣で語るよりも、違いを味わうほうがいい。

第1作は、夏目雅子の存在そのものが映画の重心になっている。
彼女が現れ、店の空気が変わり、彼女がいなくなることで時間が揺らぐ。
そこには、スター映画としての強度がある。

一方、第2作は、前作の幻のような余韻を引き継ぎながらも、より人間関係の現実味へと踏み込んでいる。
キャストが変わったことで、同じ安さんと真弓でありながら、まったく別の男女に見える。
それは続編としての弱点でもあり、同時に面白さでもある。

©1985 松竹株式会社 

同じ「時代屋」なのに、流れている時間が違う。

この違いを感じることこそ、2本を続けて観る醍醐味だろう。

夏目雅子を“美しい女優”で終わらせないために

『時代屋の女房』を語るとき、夏目雅子の美しさは避けて通れない。

だが、この映画で本当に心を打つのは、彼女の美しさそのものではなく、その美しさがどこか不安定であることだ。
真弓は、安さんの生活に幸福を運んでくる存在であると同時に、その幸福が永遠には続かないことを最初から予感させる存在でもある。

それは、観客が後年の夏目雅子の運命を知っているから、より強く響く部分もあるだろう。
しかし、映画の中の真弓は、決して“伝説の女優”という額縁に収まってはいない。
彼女は生きている。
笑い、迷い、ふといなくなる。
だからこそ忘れられない。

この映画を観ることは、夏目雅子を懐かしむことではない。
彼女がスクリーンの中で、どれほど自由に、どれほど危うく輝いていたかを、もう一度確かめることなのだ。

昭和の人情喜劇ではなく、いま観るべき“孤独の映画”

『時代屋の女房』は、昭和の人情喜劇として紹介されることが多い。
たしかに、町の人々のやりとりには温かさがあり、笑いもある。
だが、いま観ると、それ以上に孤独の映画として胸に迫る。

誰かと一緒にいても、人は完全にはわかり合えない。
相手の過去をすべて知ることもできない。けれど、それでも同じ時間を少しだけ共有することはできる。

安さんと真弓の関係は、まさにそのようなものだ。
名前をつければ壊れてしまう関係。
説明しようとすれば逃げてしまう感情。
それを映画は、無理に言葉にしない。

だから、古びない。

『時代屋の女房』が今も魅力的なのは、昭和の町並みが懐かしいからだけではない。
人と人との距離の取り方、踏み込みすぎない優しさ、そして誰かが去ったあとの空白を描いているからだ。

まとめ:『時代屋の女房』は、失われた時間を抱きしめる映画である

『時代屋の女房』は、派手な名作ではないかもしれない。

だが、一度観ると忘れがたい。
夏目雅子の真弓、渡瀬恒彦の安さん、森崎東の人情喜劇、そして大井町という町の湿度。
それらが重なり、1983年の日本映画にしかない手触りを残している。

そして『時代屋の女房2』は、その幻のような世界を別のキャスト、別の温度で受け継いだ作品だ。
前作と同じものを期待すると戸惑うかもしれない。
だが、違うからこそ見えてくるものがある。
続編とは、同じ場所に戻ることではなく、同じ場所がすでに変わってしまったことを知ることでもある。

古いものを扱う「時代屋」は、失われた時間の置き場所だ。

そこに現れた女房たちは、安さんの人生に、そして観客の記憶に、ほんの少しだけ居座って、ふっと去っていく。

だから私たちは、またこの映画に戻ってきたくなる。

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