設定で愉しむ『男はつらいよ』~その1・団子屋と寅次郎~

みなさま初めまして。このたびシネマズで記事を担当することになりました大場ミミコと申します。


かつて脚本家の卵として10年ほど修行した筆者ならではの視点で、記者の仲間と一緒にシネマズを盛り上げていきたいと思いますので、何とぞよろしくお願いいたします!

さて、そんな私の第一回目の記事ですが、寅さんで行かせていただこうと思います。松竹と言ったら、やっぱ『男はつらいよ』ですものね~。

寅さん マドンナ 団子屋 車寅次郎



1969年から1995年までの26年間、実に48作品を誇る国民的映画『男はつらいよ』。

でも10~30代の方にはイマイチなじみが薄いかもしれません。主演の渥美清さんが国民栄誉賞を受賞された事や、世界最多シリーズとしてギネス認定されてる事よりも、平成っ子には「寅さん=ジバニャンやリチャード・ギアの元ネタ」って事の方が有名かもしれません。

しかしそんな若者達でも、一度はこの口上を聞いたことがあるのではないでしょうか?

わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。
帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎、
人呼んでフーテンの寅と発します。

この口上のおかげで、寅さん=柴又出身という設定が周知されました。しかし、山田洋次監督率いる制作サイドは、なぜ物語の舞台を柴又・帝釈天付近に設定したのでしょうか?その謎を、寅さんのキャラクターに絡めて紐解いていきたいと思います。

寅さんと柴又、そして団子屋


寅さんこと車寅次郎は、映画のために作られた架空の人物です。にも関わらず、実存するのではないかと錯覚するほどリアルに作り込まれています。

そのキャラクターは『行き当たりばったりで支離滅裂』『情には深いが、他人との間に境界線を引けない』『定住・定着のできない社会不適合者』という設定です。また、恋でも仕事でも成就の雰囲気が漂った途端「えいや!」っと両手で幸せを遠くに突っぱねてしまう厄介な性分の持ち主でもあります。

筆者は脚本家時代、魅力的なキャラを作るために心理学の学校に通いました。その業界的に言うと、このようなパーソナリティは「○○性人格障害」などの病名がつくことは確定です。まぁそのくらい突き抜けた設定だからこそ、あれだけの大ヒットに繋がったかもしれませんが、制作側は、単にドタバタコメディを誇張するために寅さんを中二病のこじらせオヤジに仕立て上げたわけではありません。もちろんコント的な要素もありますが、それ以上に帝釈天周辺に住む人々の性質&コミュニティの常識を観客に伝える重要なアイテムという側面を担っていると私は思うのです。

下町と言うと「義理人情に厚く、喧嘩っ早いけど細かい事は気にしない」みたいな印象がありますが、帝釈天というシンボルがある柴又には、さらに信仰というアイテムがプラスされます。寺社を擁した門前町では年に何度も祭事があり、近隣の住人や商店は祭の成功のために協調・団結する文化の中で暮らしてきました。

なので、多少の揉め事があっても、異端児が入ってきても、仏の教えと祭事の習わしのもと「ひとまず受け入れる」態勢が整っているのが柴又という土地なのです。その気質をギュッと詰め込んだのが、物語の中心舞台となる『とらや(40作目からは『くるまや』に店名変更)』という団子屋です。寅さんが赤ん坊から思春期まで過ごした実家でもあり、壮年期の寅さんにとっては『止まり木』のような場所でもあります。

『男はつらいよ』シリーズは、旅先で寅さんが恋に落ち、すったもんだ&じんわり涙を繰り返すロードムービーのように思えますが、俯瞰で見ると『とらや(くるまや)』を軸にして扇状に展開していることが解ります。寅次郎がどこに移動しても、誰と繋がっても、必ず『とらや(くるまや)』に戻ってくるのです。そのくらい、寅さんにとって心を許せる、安心安全の地ということなのでしょうね。

寅さん 男はつらいよ 高木屋老舗 だんご屋 とらや モデル



※団子屋のモデルとなった「高木屋老舗」

一見、強引で不自然な設定


さて『男はつらいよ』の第一作目ですが、30代半ばになった寅さんが20年ぶりに柴又に帰ってくるところから始まります。

寅次郎は、両親に代わって団子屋を継ぎ、さくらを育ててくれたおいちゃん・おばちゃんに長々と仁義を切ります。この『仁義口上』(セリフ)とおいちゃん達との会話で、寅さんが家出していた期間に両親と兄が亡くなったこと、唯一生きている妹のさくらは一流企業でキーパンチャーとして働いていることなどの背景が、観客に伝わる作りになっています。

そこへ突然、さくらが会社から帰宅します。

最初はあからさまに寅さんを警戒していたさくらですが「俺だよ、兄ちゃんだよ!」という言葉を聞いた途端、頬をゆるませ寅次郎に駆け寄っていきます。そして、それからしばらく一緒に暮らすことになります。この展開に、個人情報保護がデフォルトな我々世代は「マジかいな」と思うのではないでしょうか?

素性の全く解らない、トランクに腹巻きというヘンテコな出で立ちの男が「20年前に家を出た寅次郎だよ!」と言ってきたとしても簡単に信じるわけにはいきませんし、ましてやどこの馬の骨とも知れない男と寝食を共にするなんて、にわかに信じ難い話です。しかもさくらは、嫁入り前のステキ女子ですし、丁重にお引き取り願うのが常のような気がします。しかし、おいちゃんもおばちゃんも近所の人も、誰ひとりとして寅さんをさくらと同じ家に住ませることに反対する者はいません。当たり前のように彼を家族の一員として招き入れ、それどころか翌日は、さくらの見合いに彼を付き添わせるという離れ技をやってのけます。

まぁ見合いについては、二日酔いでダウンしたおいちゃんの代理で寅さんが同行することになったという、のっぴきならない理由があったのですが…だからと言って、昨日会ったばかりの謎多きおっさんに、大事な見合いを任せるなんてアンビリーバボーですよね。

確かに今から40年も前の高度経済成長期の話ですし、加えて『下町情緒』『信仰の基盤』などの要素が重なると、異端児でも厄介者でも受け入れざるを得ないのかもしれません。でも手放しで納得するには、何だかまだ材料が足りないような気もします。

それともう1つ、気になるエピソードがあります。

『男はつらいよ』シリーズの醍醐味に、マドンナと呼ばれる美しい女優が毎回ゲストで招かれて寅さんと恋に落ちるという要素があるのですが、彼女達の多くは、傷心という設定で登場します。そんなマドンナに寅次郎はこのようなセリフを放ちます。

「困ったことがあったら柴又の団子屋を訪ねな。そこに行けば何とかしてくれるよ」

ものすごい信頼ですよね。でも、20年も離れていたコミュニティにここまでの絶対感を抱けるものでしょうか?しかしマドンナ達はこの言葉に導かれ、団子屋に足を運ぶのです。その後、店で働いたり、2階の部屋に間借りする女性もいました。寅さんだけでなく、どこの誰かも知らない女性の面倒も見るなんて、帝釈天周辺の人々はどれだけフランクなのでしょう。

いくら人情溢れる街だと言っても、あまりにも現実味を欠いた設定に「観客は納得するのだろうか?」と余計な心配をしてしまうくらいです。しかし実際は、多くの人々がこの映画のリアリティに共感し、登場人物に感情移入する結果となりました。その大きな理由は、寅次郎の生い立ちにあると私は思っています。

寅さんの悲しきバックボーン


『男はつらいよ』を観たことがある方には常識かもしれませんが、実は寅さん、父親がベロベロに酔った時に浮気相手とイタしちゃって出来た子供なんです。

町に居づらくなった寅さんの母は、産まれたばかりの寅さんを帝釈天の参道にある団子屋(寅さんの父親の家)に置き捨てたんですね。そして浮気相手の子と、本妻との家族が一緒に暮らすという昼ドラもビックリな環境で寅次郎は育ちました。

で、その父親ってのがアル中の単細胞で、常に寅さんを「お前がバカなのは、酩酊して作った子だから」と罵っていたそうです(劇中のセリフに出てきます)。そして寅次郎は16になったある日、件の父親との大げんかをきっかけに家出をし、それ以来消息不明になってしまうのですが、約20年後…何を思ったのかフラッと寅さんが故郷に帰ってきたのです。

寅次郎の顔をはっきりと覚えている人は一握りでしょうが、団子屋の可哀想な生い立ちの子としてインプットしている住人は多かったのではないでしょうか。心理学も心療内科もまだ市民権を持たない時代でしたが、人々の多くは寅さんの人格形成に家庭環境が大きく関わっていると感じ取ったのでしょう。

「この子だって、好きで歪んだわけじゃない。ある意味被害者なんだ」

という同情と自責が住人の根底にあるからこそ、突然現れた寅さんに門扉を開いたのかもしれません。そして寅さんも、不貞の子である自分を疎む事なく伸び伸びと育ててくれた門前町のコミュニティに対して、揺るぎない信頼と感謝を持っています。だからこそ、20年の空白を超えて帰郷したのでしょう。

『不自然』を『自然』に魅せる妙


あまりにも現実離れした設定や、誇張され過ぎたキャラクターを観客に違和感なく提供し、共感を得るにはディテールをこれでもかと積み重ねることが効果的です。

映画もドラマもコミックも、平たく言えば『嘘』の世界です。つまり、いかに上手に多くの人を騙せるかというのが作品の評価に繋がったりします。寅さんも、最初は「極端なキャラクターで笑いを取ろう!」と据え置かれた人格かもしれません。

でも、それを無理なく展開するには、寅さんを受け入れるコミュニティが必要だったし、受け入れるに至る理由も不可欠だった。そして寅さんが極端で空気の読めない性格になった理由も考えなければいけないし、マドンナ達や観客が夢中になる魅力を与えてやらないといけない。そのように、細かく細かく設定を詰めて行き、すべてがカチッと嵌った時に、嘘はリアルを超えるのです。

車寅次郎という人物がそのように誕生したかどうかは解りませんが、一般的に魅力的なキャラクターというのは、細かい設定を幾重にも重ねる手法を経て造形されます。小説家や漫画家の先生が良く仰ってますが、執筆の8~9割はディテールと構築に時間を裂き、残りの1~2割で本文を書くそうです。設定のために取材や時代考証を繰り返し、10年以上の年月をかける作家もいるくらいです。そのくらい、キャラクターおよび舞台の設定というのは作品において生命線となるのです。

それでもやっぱり寅さんが好き


教養もなく、定職にもつかず、夢みたいな事ばかり言って、みんなに迷惑をかけて…普通だったら悪役として登場するようなキャラクターが、主人公として長年国民を虜にしたのは一体なぜでしょうか?

それは基本嫌だけど、少しだけ良い人だったからだと思うのです。親戚とか会社とか、団体の中に1人はいるじゃないですか。悪気なく図々しくて、せっかくの和を乱すけど、いないと何だか寂しい人。そういう人の方が"完全にいい人"よりも"根っからの悪人"よりも現実味があると思いませんか?この点でも『男はつらいよ』という映画は、リアリティに徹した作品ということが良く分かります。

そして、キャラクター造形のテクニックとして『欠点の中に長所を1匙(さじ)入れる』というのがあります。

長所の中に欠点を1匙でも構いません。要は、才色兼備で性根も優しく、料理も得意でセンス抜群の主人公がいたとします。それだけでは「ふーん、そうなんだ」くらいしか観客は思ってくれませんが、そこに尋常じゃないほど足が臭いという設定が加わると「何?何?」と、つい身を乗り出してしまうのが人情ってものです。

完璧な女性かと思いきや、足がめちゃ臭いとなれば、そこからどんなドタバタが始まるのか、はたまたスリリングな展開が待ち受けているのかと、観客の好奇心はくすぐられます。他にも、共鳴・共感という効果も期待できます。人は、完璧な善・完璧な悪に憧れを持ちますが、同時に不安も覚えます。

何事もトントン拍子で進むと「ちょっと怖いな」と思ってしまうのは、自分の中で正負のバランスを取って安心しようとする心理が働くからです。それと同様に、極悪人と思われる人が犬の頭をなでる姿を見たり、福山雅治さんがラジオで下ネタを言ったりすると、その人に魅力を感じてしまうのです。短所9割の中に、優しさを1割忍ばせるという制作陣の緻密な計算のもと、寅さんのキャラクターは成り立っているのかもしれません。

長々と書いてきましたが、キャラや舞台の設定が作品に与える影響が伝わって下さったら嬉しいです。

最後に、寅さんのキャラクターを端的に表した満男(寅さんの甥。吉岡秀隆さんが演じています)のセリフがあるので、ご紹介したいと思います。
「きれいな花が咲いているとするだろう。その花をそっとして置きたい気持ちと、奪い取ってしまいたい気持ちが男にはあるんだよ。伯父さんはどっちかというと、そっとして置きたい気持ちの方が強いんじゃないかな」

それでは次回、またお会いしましょう。

(文・イラスト/大場ミミコ)

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