ヴァイオレンス映画の巨匠サム・ペキンパー監督 その真実の姿が明るみに!
今の若い世代の映画ファンで、サム・ペキンパーと聞いてピンと来る人はどのくらいいるものでしょうか。
60年代末から70年代にかけて“ヴァイオレンス映画のピカソ”とも謳われ、新作を発表するたびに賛否の嵐を吹き荒していくも、やがて自身も酒とドラッグに溺れ、ようやく立ち直ったかと思えたときに斃れた鬼才監督……。
《キネマニア共和国~レインボー通りの映画街 vol.31》
そんな彼のドキュメンタリー映画『サム・ペキンパー 情熱と美学』が公開されました。
西部を愛し、暴力から目を背くことのなかった
鬼才の波乱の生涯
1925年2月21日生まれのサム・ペキンパーは、50年代のTVドラマ『ガンスモーク』や『ライフルマン』『遥かなる西部』などの演出で認められ、61年『荒野のガンマン』で劇場用映画監督デビューを果たし、第2作『昼下りの決斗』(62)で往年の西部劇スター、ランドルフ・スコットとジョエル・マクリーを起用し、年老いた西部男と西部の挽歌を奏でて一躍映画ファンの脚光を浴びます。
続く『ダンディー少佐』(65)では、編集をめぐってプロデューサーと衝突し、勝手に30分以上もカットされた上、トラブルメーカーとしてハリウッドのブラックリスト入りし、数年間干されてしまいますが、『ワイルドバンチ』(69)で見事に復帰。
ここで彼は西部のならず者集団が時代の推移とともに滅びていくさまを、スローモーションを駆使した鮮烈な血と暴力の描写(特にクライマックスは当時“死の舞踏”=デス・バレエとも称されました)で提示し、激しい賛否を呼びましたが、その奥底には滅びゆく西部に対する哀悼と、時代にそぐわない男たちに対するシンパシーがみなぎっていました。
その後も彼は問題作を連打していきますが、トラブルメーカーとしてのプロデューサーとの対立は常で、『ゲッタウェイ』(72)では製作兼主演のスティーヴ・マックィーンの意向で勝手に音楽を差し替えられ、『ビリー・ザ・キッド 21才の生涯』(73)では冒頭とラストなどがカットされて劇場公開されました。
こういったストレスに耐えかねたか、もともと酒に溺れがちだったペキンパーは70年代半ばからコカインに手を染めて徐々に精神を病んでいき、78年の『コンボイ』では撮影中からトラブルが続出し、最終的には編集に自身が関わることなく映画は完成。彼は再び監督としての職を失います。
ようやく復帰できたのは83年の『バイオレント・サタデー』で、ここで彼は予算内で期限通りに作品を完成させ、すっかり立ち直ったことを周囲に示したのですが、その後ジュリアン・レノンのPVを2本演出した数週間後の84年12月28日に心臓発作で亡くなりました。
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