ヴェネツィア映画祭の歴史と選りすぐりの傑作2選
Photo via VisualHunt
現地時間8月31日から9月10日まで開催される第73回ヴェネツィア国際映画祭。最高賞である金獅子賞を争うコンペティション部門の出品作は、以前当コラムでも紹介した通り。(参照:http://cinema.ne.jp/recommend/venice2016073106/)
今回は、ヴェネツィア国際映画祭の歴史を振り返りつつ、過去の金獅子賞受賞作から選りすぐりの傑作を2本紹介したい。
世界最古の国際映画祭
映画が誕生したのとほぼ同時期である1895年にヴェネツィアでスタートしたビエンナーレ現代美術展。その18回目となる1932年から新たに設けられた映画部門が、この映画祭のはじまりだ。
オスカーも受賞したフレデリック・マーチ主演の『ジキル博士とハイド氏』(ルーベン・マムーリアン監督)がオープニングを飾った第1回は、今のような〝金獅子賞〟という名目ではなく、〝楽しい映画賞〟(受賞作はルネ・クレールの『自由を我等に』、〝感動的な映画賞〟(エドガー・セルウィンの『マデロンの悲劇』)、〝独創的な映画賞〟(『ジキル博士とハイド氏』)という随分と漠然としたネーミングの3つの賞が最高賞の役割を果たしていた。
その後は最優秀作品賞や、外国映画と自国映画をそれぞれ分けて選んだり、〝ムッソリーニ杯〟と銘打った賞になるなどの紆余曲折を経る。第二次大戦中の1940年からは国際映画祭として認められることはなかったが、開催自体は継続され、再び国際映画祭として認められるようになった1947年からは、最高賞を〝グランプリ〟と名付けるようになった。
そして1950年、この年から〝サン・マルコ金獅子賞〟として、今の受賞形態に近い形が完成するわけだ。その記念すべき最初の受賞作をまず紹介しよう。
『裁きは終りぬ』
最近代表作の『眼には眼を』がDVDレンタル化されたことで、注目を集め始めているフランス映画界の頭脳派監督アンドレ・カイヤット。映画監督になる以前は弁護士の職に就いていた彼の、映画キャリア初期に挑んだ法廷三部作(他に『洪水の前』『われわれは皆殺人者だ』)の1作目である本作は、さすが専門分野の人間が描いただけはある見事な作品だ。
癌に苦しむ恋人を安楽死させた女性。彼女を裁く陪審員に選ばれた7名の男女。法廷劇の代表格とも言えるシドニー・ルメットの『十二人の怒れる男』と同様に、〝人が人を裁く〟制度である陪審制に対する問題提起を投げかける本作は、法廷劇でありながら、同時に陪審員に選ばれた人間と被告それぞれの群像劇という見方もできる。モノクロームの画面は、同時期に流行し始めていたフィルムノワールとはまた少し違った色で、終始息を呑むような緊張感に苛まれる。そして迎える救いようのない結末に、そこはかとない恐ろしささえも覚えてしまうのである。
数年前から日本でも裁判員制度が導入され、陪審員を描いた法廷劇が一時期注目されたわけだが、どういうわけかこの作品はあまり目立った印象を受けない。しかし、数ある法廷劇の中で、これほどまでに現実的かつ沈着冷静な視点で見つめる作品が他にあっただろうか。
本作があまり語られないことに疑問を抱くもう一つの要因は、何と言ってもその受賞歴にある。アンドレ・カイヤットは本作ののち、『ラインの仮橋』でも金獅子賞を受賞する。史上初めて2度の金獅子賞を受賞した監督なのだ。さらに、本作がヴェネツィアを受賞した翌年に始まったベルリン国際映画祭。その第1回の最高賞・金熊賞(幾つかの部門に分けられたうちのひとつではあるが)も受賞している。
三大映画祭で二つの最高賞に輝いた作品は、1953年にベルリンとカンヌで受賞したアンリ=ジョルジュ・クルーゾーの『恐怖の報酬』と本作だけなのだ。
三大映画祭の誕生と共に訪れた転換期
もっとも、『裁きは終りぬ』が受賞した頃は、まだ三大映画祭と呼ばれることはなかった。
ムッソリーニ政権の力から離れ、国際映画祭としての地位を確立していった中でも、51年まではサン・マルコ金獅子賞とは別に最優秀イタリア映画賞を設け、自国の映画を高く評価する傾向があった。日本から出品された『羅生門』や『無法松の一生』、『雨月物語』が高く評価された50年代の終わり頃、すでにカンヌとベルリンも国際的な地位を獲得し、三大映画祭という様式が出来上がりはじめる。
ところが当のヴェネツィアでは60年代に入ると、金獅子賞受賞作のほとんどが自国イタリアの作品で埋め尽くされるという、国際映画祭にしては異例の結果を続く。これが1969年から11年間にわたり、コンペティション部門が廃止された要因のひとつでもあるのだろうか。
だからと言って、このイタリア映画無双時代に金獅子賞を受賞した作品が身内びいきで劣っている作品というわけではない。とくに1965年の第26回、ゴダールの『気狂いピエロ』や黒澤明の『赤ひげ』を抑えて金獅子賞を獲得したのが、イタリアを代表する巨匠ルキノ・ヴィスコンティの隠れた名作である『熊座の淡き星影』であることに注目せずにはいられない。
『熊座の淡き星影』
ネオレアリズモの終焉後、数々の絢爛豪華な大作を作り出し、名実ともにイタリア映画を代表する巨匠となったルキノ・ヴィスコンティ。彼は数多くの大作の合間にも、小品ながら優れた作品を生み出しているのだ。その一つが、『山猫』の後に撮った本作である。
アメリカ人と結婚し、夫マイケル・クレイグを連れて故郷に戻ってきた姉のクラウディア・カルディナーレ。彼女は弟のジャン・ソレルとは幼少期からただならぬ関係であり、マイケル・クレイグはこの二人の関係に立ち入ることができず、ニューヨークへ帰ってしまう。
ソポクレスの著名なギリシャ悲劇「エレクトラ」をモチーフに、姉弟の禁断の恋を描いた本作は、色彩的な美こそモノクロームの画面によって封じ込められるも、ディテールの美しさは健在である。アルマンド・ナンヌッツィのキャメラによって捕えられる、登場人物の些細な感情の機微、さらには街灯の光や陰影の付け方は圧倒的である。
劇中でジャン・ソレルが書き綴っている自伝のタイトルでもある、この『熊座の淡き星影』というタイトルの儚さもさることながら、やはりソレルのシスコン演技が秀でている。それに対応するカルディナーレも、『若者のすべて』、『山猫』とヴィスコンティ作品が続き、セックスシンボルとしての位置付けから、実力派女優としての風格を備え始める。
たとえば本作の前年の金獅子賞作品であるアントニオーニの『赤い砂漠』も同様に、世界各国で新しい映画ムーヴメントが起こっていたこの時期に作り出されたイタリア映画は、他のどの国よりも早く、現代にも通じる様式美を完成させていたのである。そう考えると、イタリア映画ばかりが高い評価を与えられたことも充分納得がいく。
そして堂々たる国際映画祭へ
そもそもヨーロッパ映画に傾倒しがちな映画祭ではあったが、1980年から様相が一気に変わる。コンペティション部門が復活した1980年の金獅子賞はジョン・カサヴェテスの『グロリア』とルイ・マルの『アトランティック・シティ』と、どちらもアメリカ資本の作品だった(第3回の『アンナ・カレーニナ』以来である)。
それ以降もヨーロッパ作品や英語圏の作品はもちろんのこと、世界的に注目が高まっていたアジア作品を真っ先に評価するなど、偏りなくバラエティに富んだ受賞結果が毎年見られ、益々国際映画祭としての存在感を放っている。
とくに近年では、ヨーロッパ映画への影響力が大きいカンヌと、時期的にもアカデミー賞と繋がりやすいベルリン、そして多様な作品を評価するヴェネツィアと、三大映画祭それぞれが分立した特徴を持つようになっているのだ。
(文:久保田和馬)
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