映画コラム
単なる感動コメディとは一線を画した『マダム・フローレンス!』
単なる感動コメディとは一線を画した『マダム・フローレンス!』
(C)2016 Pathé Productions Limited. All Rights Reserved
今年の東京国際映画祭の公式オープニング作品となり、そのために主演メリル・ストリープが来日したことでも大いに話題になった『マダム・フローレンス! 夢見る二人』は噂に違わぬ秀作で、その装いなども実にゴージャスで見る者を映画ならではの世界へ包み込んでくれています……が?
《キネマニア共和国~レインボー通りの映画街vol.179》
この作品、単に「笑いと感動の実話」ですませてよいものなのでしょうか?
オンチのマダムがNYの
カーネギーホールでリサイタル!
『マダム・フローレンス! 夢見る二人』は、第2次世界大戦下のニューヨークを舞台に、もともとソプラノ歌手を夢見ていた社交界のトップ・マダム、フローレンスが、祖国のために戦った兵士たちのために、何とカーネギーホールでリサイタルを開いたという実話をもとに映画化したものです。
それだけなら別段映画にするほどの話ではありませんが、この実話には大きなポイントがありました。
マダム・フローレンスは、言葉に尽くしようもないほどのオンチだったのです!
絶世のオンチがカーネギー・ホールを満員にした!
しかも、そんなヒロインを名優メリル・ストリープが演じる!
いったいどんな微笑ましいコメディ世界が展開されていくのか、期待せずにはいられません。
そして、いざ鑑賞してみると、確かにヒロインのオンチぶりは尋常ではなく、そのためにメリルは大特訓したというのですから、さすがは大女優。どこぞの国の人気スターたちも見倣っていただきたいものです。
しかし、しばらく見続けていくうちに、どうもこの作品、単なるコメディではなく、むしろコメディの衣をまといながら人間の心の闇を描いたものなのではないか? そう思えるようになってきました。
要はこの作品、「嘲笑」がテーマとなっているのです。
自分がオンチであることを当の本人だけがまったく気づいておらず、そのためにマダムの事実上の夫(ヒュー・グラント/いつもながらにこの人が登場すると作品の品格が上がりますね)や、ヴォイス・コーチに雇われたピアニスト(サイモン・ヘルバーグ)をはじめ、周囲は大わらわ。マスコミの買収工作を図ってみたり、そこまでやる必要はないだろうと思いきや、実は彼女には長年患ってきた重い病があったのです。
カーネギーホールでリサイタルを開くなどとは、彼女のオンチが一般にばれてしまうことにもなりかねない。しかし、何とかして彼女の夢をかなえてあげたい。また、見る側にまでそう思わせてしまうほどに、この映画のマダムは世間知らずではあれ、愛らしく魅力的で、どこか守ってあげたくなるような存在なのです(さすがはメリル・ストリープ!)
映画の前半、マダムがオンチであることを知りつつ信奉してくれている者だけを集めて小さなリサイタルを開くシーンで、その中で信奉者でも何でもない成り上がり風のゲスいアグネス・スターク夫人(ニナ・アリアンダ)が初めて彼女の歌を聞いて悶絶を打つくだりがあります。もう、このあたりから見ている側はやがて来る大リサイタルに対してハラハラドキドキなのですが、ではいざ当日、どうなるか……。
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イギリス映画ならではの
皮肉に満ちた人生観
(ここからはちょっとネタばれなので、映画を見てからお読みください)
カーネギーホールはチケット完売の大盛況。しかし、そこで壇上に立ったマダムが歌い出すや、場内は唖然となり、やがて戦場から帰還してきて間もないあらくれ兵士などの失笑と嘲笑が始まります。
一体何が起きたのかわからずマダムが愕然とする中、先のゲス夫人が場内の嘲笑する連中を一喝し、その後場内はひとつにまとまり、結果として大喝采の内にリサイタルは終了するのです。
はじめはオンチであることを嘲笑していたゲス、いやスターク夫人は、いつのまにかマダムのファンとなり、実に頼もしい味方となっていたのでした。
ここで映画が終われば、実にアメリカらしい“笑いと感動の実話の映画化”になっていたことでしょう。
でも、この作品、アメリカ映画ではなく、イギリス映画なのです。
監督も『マイ・ビューティフル・ランドレット』(85)や『危険な関係』(88)『クィーン』(06)などなど、シニカルな目線から見据えた人間ドラマに才を発揮するイギリス人スティーヴン・フリアーズなのでした。
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笑いの本質とは
差別か? 哀愁か?
この映画も、リサイタルの翌日が描かれます。
(さすがに、ここから先はもう書く勇気がありません。映画館でご確認ください)
それは“笑いと感動の実話”を求めて映画館に来た観客からすると、ある意味見たくないものかもしれません。
しかし、このラストによって、人はどこかで人を見下しながら生きる存在であることが暴露されるのです。
「笑いの本質は差別にある」と、どこかで聞いたことがありますが、なるほど確かに多くのお笑いTV番組の漫才やコントなどを見ていますと、ボケて突っ込まれ、頭をはたかれ、バカだのブスだのののしられ、そのつど笑いをドッカンドッカンとっていくものが常ではあります。
一方で、『トム・ソーヤーの冒険』などで知られるマーク・トウェインは、「笑いの源泉は哀愁である」と記しています。
つまり、笑いとはどこか滑稽で哀しいものでもあり、またそういったものに触れていかないと、人の心は癒されないのでしょう。
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エド・ウッドとマダム・フローレンス
互いに共通した不可思議なリスペクト
私自身、この映画を見ながら思い出したのは、“史上最低の映画監督”の異名をとるエド・ウッドでした。
自分自身は真摯に映画を作り続けているつもりでも、出来上がった作品群は常に観客から嘲笑され、しかしそれゆえにやがては映画史に残ることになり、今なおその作品群が見られ続けているという、皮肉なのか名誉なのかわからないリスペクトがエド・ウッドには捧げられ続けています。
先ごろ惜しくも亡くなったデヴィッド・ボウイは、彼女のアルバムを「生涯の名盤」と称していたそうですが、マダム・フローレンスも今では多くのアーティストなどから不可思議なリスペクトが捧げられています。
この映画も、人間の嘲笑をモチーフにしながら、マダム・フローレンスの微笑ましくも愛らしい人間性を決しておろそかにしていませんし、またメリル・ストリープもそのことを掌握した上で、彼女を演じているのは明らかです。
来日の際、メリル・ストリープはこの映画を「みなさん大いに笑ってくださいね」とPRしていましたが、その言葉の奥に潜むものも、私たちは少しでも理解しておいたほうがよいかもしれません。
笑いの奥に潜む闇、哀しみの奥に潜む光、お互いを持ち合わせてこその、人の人生であることをこの映画は“笑いと感動の実話”を盾に語っているように、私には思えます。実にしたたかな、スティーヴン・フリアーズ監督作品ならではの深みのある人間ドラマの秀作と唸らされる所以です。
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(文:増當竜也)
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