『耳をすませば』はなぜ“恥ずかしい”のか? 宮崎駿が目指した“現実”から読み解く
5:ラストの「結婚してくれないか!」のセリフの意図とは?
そんな風に作品の精神性が素晴らしいと感じる一方で、やはり「今観ても正直恥ずかしい!」というシーンは多々あります。雫が男友達の杉村からの予期しない告白を受けたり、雫が「カントリーロード」を歌っているとおじいさんたちが集まって演奏をしてくれたりするあたりでは、良い意味で「やめてくれ!」と言いたくなりました
その恥ずかしさが極に達するのは、言うまでもなくラストシーン。まだ中学3年生の聖司が言った「今すぐってわけにはいかないけど、結婚してくれないか!」というセリフに「早すぎるだろ!」とツッコんだ人はどれだけいるでしょうか。このセリフも、宮崎駿が「ただ『好きだ』というだけじゃ弱い」という理由から付け加えたものだったそうです。
ただ、近藤喜文監督はこの「結婚してくれないか」は「あの白いモヤの向こうを見据えて、2人で歩き出そうとする決意」であり、(宮崎駿と同様に)「青春時代に悔いを残した自分の『こうありたかった』の表現」と、はたまた「最近の若い人の付き合いが浅薄な印象を受けるので、もっと自分の気持ちを素直に言葉に出したらいいのにという想いから生まれた言葉である」とも語っていました。
この若者へのエールもまた尊いのですが……やっぱり「素直に言葉にする」っていうのは恥ずかしいものですよね。でも、そうした恥ずかしさを乗り越えてこそ、より良い現実が見える、ということも確かにあるのかもしれません。
そういえば、雫は中盤に「私だって前はずーっと素直で、優しい子だったのに」と悩んでいたのですが、そのすぐ後に聖司の作ったバイオリンを見て「すごいなあ、よくこんなの作れるね。まるで魔法みたい」と言ったため、聖司に「お前よくそういう恥ずかしいこと平気で言えるよな」とツッコまれています。
思い悩むばかりよりも、恥ずかしがらずに素直に口に出してしまえばいい。若い頃は、そのくらいでもいいのかもしれませんね。
余談ですが、宮崎駿は職場の若い女性をはじめとしたたくさんの人にこの「結婚してくれないか」のシーンを見せて、「こう言われたら、ウンと言うかな?」と聞いていたのだとか。その中で「もう10回くらいデートしないとウンと言わないでしょう」と返されたこともあるようです(笑)。やはり、「こんなこと言わないかなあ……」と宮崎駿も不安に思っていたんですね。
© 1995 柊あおい/集英社・Studio Ghibli・NH
おまけ:タイトルの意味って?エンドロールにはあの2人も?
映画を観てみて『耳をすませば』のタイトルにピンとこなかった方も多いのではないでしょうか。
実は、原作者の柊あおいさんは、日常から使っていたその「耳をすませば」の言葉の広がりに気づき、物語に先んじて“タイトルありき”での作品作りをしていたそうです。そのためか、原作漫画ではしっかり言葉として「耳をすませば」というフレーズが出てくるのです。
映画ではこのタイトルは明確には回収されませんが、“雫が聖司の心の声を聞こうとした”“聖司のバイオリンの音色の良さに気づいた”というふうに、いくつもの意味の広がりを考えることもできます。ぜひ、観た人それぞれの「耳をすませば」を発見してみてほしいです。
また、告白を巡ってギクシャクしてしまった杉村と夕子は、エンドロールで行き交う人々の中で“待ち合わせ”をする姿を見ることができます。
これは近藤喜文監督の「絵コンテにどうしても入らなかったけど、どうしてもあの2人を救済したかった」という想いから生まれたのだとか。雫と聖司はもちろん、彼らの“今後”に想像が膨らむことも、また素敵です。
(文:ヒナタカ)
参考文献
・ジブリの教科書9 耳をすませば (文春ジブリ文庫)
・耳をすませば (集英社文庫—コミック版)
・『月刊アニメージュ』の特集記事で見るスタジオジブリの軌跡—1984-2011 (ロマンアルバム)
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