映画コラム

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2017年03月10日

『ラ・ラ・ランド』を“好きになれない理由”を考えてみた

『ラ・ラ・ランド』を“好きになれない理由”を考えてみた


4.ミアが“大人になること”は、セブにとっては“赤ん坊”だった?


ミアは終盤に小さな劇場で芝居をしますが、楽屋では自分の悪評を聞いてしまい、実家に帰ってしまいます。その演技がキャスティングディレクターに絶賛されていたことを知らされても、ミアは「これでダメだったらもう立ち直れない」と消極的になっていたため、セブは「君は赤ん坊だ!」などと激しく叱責しました。この“赤ん坊”は、この時のミアの態度だけでなく、前述したスクリーンの前に立ってしまうような、ミアの幼さも示していたのでしょうね。

この後のオーディションでは、ミアは「おばからこう言われていたわ、『少しの狂気(A bit of madness is key)が色をつける、やってみなくちゃわからない、世界には私たちが必要なのよ』」などと歌いました。この“少しの狂気”というワードも重要です。はっきり言えば、ハリウッドで女優として成功するなど夢のまた夢であり、“ありえない”とまで言われそうなこと。狂気と呼べるほどの執念がなければ、実現など不可能なのですから。

以上のことを踏まえると(踏まえなくてもそうですが)、セブとミアの物語は似ているようで、まったく異なる結末を迎えています。セブは“大人”になり妥協することで成功できた一方で、ミアは“狂気”を身につけ、妥協せずにとことん好きなこと(女優としての演技)を続けることで、夢を実現しようとするのですから。

そして、ミアが妥協すること、言い換えれば“大人”になって夢を諦めようとしたことこそが、逆にセブからは「君は赤ん坊だ」と叱責されているのです。矛盾しているようですが、これこそ、“2人がまったく違う道を選んで、それぞれの方法で夢を叶えようとした”ことを示しているのではないでしょうか。そして、“違う道を選んでしまった”ことが、あのラストシーンにつながるのですが……。

ラ・ラ・ランド サブ1


(C)2016 Summit Entertainment, LLC. All Rights Reserved. Photo credit: EW0001: Sebastian (Ryan Gosling) and Mia (Emma Stone) in LA LA LAND. Photo courtesy of Lionsgate.



5.セブとミアも“2人だけの世界”にいて、その他の価値観に排他的なところがあった



こうしてまとめてみると、ミアは“狂気的なまでに自分の好きなことで成功するという夢を追い続けた”、セブは“一応は大人の対応をして自分の好きではない音楽を受け入れて成功する道を選んだ”と、それぞれの夢における“価値観”がはっきりと表れています。そして、2人はお互いの言葉に励まされたり喧嘩をすることはあっても、その他の価値観については“排他的”なところがあるのです(ミアがプールサイドで自慢げな脚本家の言葉を聞こうともしていなかったり、セブがジャズバーでのオーナーの要求に従わなかったりなど)。

2人がその他の価値観に耳を傾けるシーンもあるにはあるのですが、結局はそれは否定されています。ミアは楽屋で聞いた悪評を鵜呑みにしたことはありましたが、セブの言葉により結局はオーディションを受けました。セブもキースの助言をイヤイヤながらも受け入れましたが、やはり“自分の好きな音楽は揺るがなかった”ということがラストでわかるようになっています。

言うまでもなく、世の中の人は夢や音楽に対して多様な価値観を持っています。しかし、本作ではミアとセブの一方的な価値観ばかりを、“2人だけの世界”が彼らの価値観の全てであるかのように、浮き彫りにしていくのです。彼らが映画館の中で人目を構わずにキスをしようとしたり、プラネタリウムの中で“有頂天”になるのは、その“2人だけの世界”がそのまま表れたかのようなシーンでした。これらの2人の価値観に共感できない、違和感を覚える方にとって、『ラ・ラ・ランド』は居心地の悪い作品になってしまうのかもしれません。

もちろん、自分の価値観をまったく変えないということも、大切なこと、尊いことでもあります。この2人の価値観に同意できるか、感情移入ができるかどうかが、本作の評価の分かれ目なのかもしれませんね。



(C)2016 Summit Entertainment, LLC. All Rights Reserved. Photo credit: EW0001: Sebastian (Ryan Gosling) and Mia (Emma Stone) in LA LA LAND. Photo courtesy of Lionsgate.



6.“努力”がほとんど描かれていない作品だった



本作は“努力”がほとんど描かれていない作品でもあります。いわゆる”スポ根もの”のような、努力と根性で逆境を乗り越えたり、ライバルと切磋琢磨していく描写が、ほぼ皆無なのです。

個人的には、これは“あえて省いたこと”として納得はできました。ミアが(おそらく長年の努力で培われていた)演技力の高さとは裏腹に評価されていないことは“電話”の演技をするオーディションで、セブが長年くすぶっていたことは「俺の人生はまだノックダウンじゃないぞ、今はロープ際で相手に打たせてるだけだ!」と声を荒げるシーンで十分にわかりますしね。

夢に対する努力ではなく、2人の価値観を主題にしたことは、本作のもっとも極端な魅力とも言えるかも。これも好き嫌いが分かれそうなのですけどね。

ラ・ラ・ランド サブ3


(C)2016 Summit Entertainment, LLC. All Rights Reserved. Photo credit: EW0001: Sebastian (Ryan Gosling) and Mia (Emma Stone) in LA LA LAND. Photo courtesy of Lionsgate.


まとめ


上記の1.と2.では、それぞれでミアとセブというキャラクターそれぞれの、どうしても好きになれないところを書きました。これが、キャラクターだけでなく、『ラ・ラ・ランド』という作品そのものに、“音楽やミュージカル映画のオマージュがたくさんある一方で、実は大衆に愛されている音楽や映画への敬意がないのではないか?”という疑いを持つ原因になってしまっているのです。

ただし、これらの描写も“夢を実現するために、何かを犠牲にしなければならない”という作品のテーマ、切なくも美しいラストを描くためには必要不可欠とも思えるものでした。モヤっとしたとしても、「やはりこの映画にはこれらの描写があるべきなんだ」という気持ちも、捨てきれないのです。

ちなみに、デイミアン・チャゼル監督が本作『ラ・ラ・ランド』の元となる作品のアイデアを思いついたのは、ハーバード大学での卒業制作(監督デビュー作)だったのだそうです。でも、監督は出資者から「主人公が愛する音楽をジャズではなくロックに変えろ」と求められてしまったのだとか。その時の苦い経験が、本作の“なかなか好きな音楽で成功できない”というセブに投影されているのです。

しかし、その一方でチャゼル監督は「セブが語ることに僕自身が必ずしも同意しているわけではなくて『それは違う』と思うこともあるんだ」とインタビューで語っています。作中のセブの態度や言葉はもちろん、観客それぞれが受けた印象も、作り手が意図したものとイコールであるとは、断言できないでしょう。

映画とは面白いもので、同じ作品を観たとしても、まったく違う感想を抱いたり、はたまた好き嫌いがはっきりと分かれることがよくあります。『ラ・ラ・ランド』はチャゼル監督の作家性や、自身の人生を反映した“価値観”がはっきりと表れており、それをどうしても“感じてしまう”ため、特に観客によって印象の異なる、賛否両論を呼ぶ作品になっているのでしょうね。

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(文:ヒナタカ)

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