映画コラム
踊らない社会派インド映画『裁き』が示す新たな潮流
踊らない社会派インド映画『裁き』が示す新たな潮流
ここ数年、日本でも流行の兆しを見せはじめている“ボリウッド映画”。
年間制作本数と観客総数で世界一を誇る映画大国インドが作り出したこの映画文化は、ムンバイを拠点に、宗教的な制約を逆手にとって音楽と踊りで感情を表現したり、ひとつの作品にあらゆる映画的要素を盛り込んだ、贅沢すぎる娯楽映画を次々と生み出してきた。
日本では、『ムトゥ 踊るマハラジャ』を皮切りに90年代から徐々に浸透しはじめ、現在では公開されるインド映画の本数も増え、毎年特集上映が行われるなど、すっかりそのイメージを確固たるものにし、定着していることはいうまでもない。
<〜幻影は映画に乗って旅をする〜vol.39:踊らない社会派インド映画『裁き』が示す新たな潮流>
しかし、そのムンバイ出身の若手監督チャイタニヤ・タームハネーが発表した『裁き』という作品は、その〝ボリウッド〟映画とは一線を画し、独自のスタイルを貫く。毅然とした社会派映画である本作は、従来のインド映画のイメージからすれば、尚更その厳粛なイメージが強まる。
映画は一人の年老いた民謡歌手カンブレが逮捕されるところから始まる。彼が被せられた罪状は「自殺幇助罪」。ムンバイに暮らす下水清掃人の男が、彼の歌に感化されて自殺を遂げたというのだ。不条理な罪で裁判にかけられたカンブレを弁護するのは人権擁護派の若手弁護士。対する検察官は、100年以上前の法を持ち出して、有罪を立証しようとするのだ。
混沌としながらも淡々と進められていく裁判によって明らかにされていくのは、事件の真相ではなくインド社会に根付く複雑さなのである。多民族国家として様々な宗教や言語が交錯し、カースト制度に代表されるような階級関係によって築き上げられてきた歴史と伝統に、現代的な人権問題がぶつかり合う。いわばインドという国家全体を、裁判という形で縮図化したのが本作の全貌なのである。
たとえば、被告カンブレはマラーティー語を話し、検察官は彼にその言語で質問をするが、公にされた裁判を公正に進めるため、弁護人は英語かヒンディー語での陳述を求める。さらに突き詰めれば、登場人物の名前から、それぞれのカースト制度における位置づけさえも見え隠れするなど、インドの法制度以上に世界に発信すべき事柄が詰め込まれている。まさに国外向けの作品ということなのだろう。
これだけ濃密な社会派ドラマを築き上げたチャイタニヤ・タームハネーは制作当時27歳。本作が出品された第71回ヴェネツィア国際映画祭のオリゾンティ部門で作品賞に輝いただけでなく、新人監督賞に当たるルイジ・デ・ラウレンティス賞が与えられたのも納得である。この賞はこれまでも、エミール・クストリツァやエリア・スレイマン、アブデラティフ・ケシシュといった国籍を一切問わない優れた才能を発掘してきた。
三大映画祭のひとつで、新たなインド映画の潮流の誕生が約束された瞬間といえるだろうか。しかし、タームハネーの作風は、まったく新しいものではない。
歌わず、踊らずにインドという国の内情を国外に向けて発信する。そのスタンスは、50年代にインド映画の存在を世界中に知らしめたサタジット・レイやグル・ダットといった先人たちがすでに行なっている。とりわけ、サタジット・レイのオプー三部作(『大地のうた』『大河のうた』『大樹のうた』)に関しては、最近の〝ボリウッド〟映画でインド映画に興味を持った映画ファンにこそ観てもらいたい作品である。
タームハネーは『裁き』の劇中を通して、100年以上前の伝統や法律が現代には通用しないことを述べている。しかし、映画に込められたテーマだけは、何十年経て社会が変貌しても通用し続けるものなのだと、改めて気付かされることだろう。
アスガー・ファルハディの登場でイラン映画が変わり、ヌリ・ビルゲ・ジェイランの登場でトルコ映画に新たな風が吹き込まれたように、チャイタニヤ・タームハネーの登場でインド映画は原点に立ち返り、〝ボリウッド〟とは対照的なもうひとつのスタイルによって、さらに世界一の映画大国としてのポテンシャルを高めていくに違いない。
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(文:久保田和馬)
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