『アーヤと魔女』はなぜ厳しい評価がされるのか?見方を変えてみてほしい「5つ」の理由
4:「あっけなく終わってしまう」のは原作を尊重したから
筆者は劇場で『アーヤと魔女』を観た後に原作小説を読んだが、映画は驚くほど「原作に忠実」な内容だった。同じくダイアナ・ウィン・ジョーンズの小説を映画化した『ハウルの動く城』が原作から長編で、映画で大胆なアレンジがされていたこととは対照的だ。そして、『アーヤと魔女』の映画本編の結末を観て、「えっ?これで終わり?」と、悪い意味でのあっけなさを覚えた方は多いのではないか。実は、それも原作に忠実であることが理由だ。
原作はダイアナ・ウィン・ジョーンズの遺作であり、後に推敲をする予定だったものの、亡くなる前に「手は入れていないけど、これなら出せるわね」と何とか出版されたものだったのか。そのこともあるのか、実際に読んでも「まだ続きがあるような」「完結していない」印象も受けるのだが、宮崎吾朗監督は「この原作を無理に膨らませようとすると、別な作品になってしまう」という意向の元、話の筋は極力原作に忠実にすることを決めたのだそう。
だが、映画オリジナルで付け加えられたところもある。それはアーヤの母にまつわるエピソードだ。これも、「お話を改変するのではなく、背景を深堀りする方向で膨らませるのはありだろうと考えて、アーヤという子の背景になるもの、アーヤの血の中にあるものを描こうと考えた」という宮崎吾朗監督の意向によるもの。これによって、「アーヤを孤児院に預けた母はどんな人だったか」を掘り下げつつ、アーヤを引き取る2人の大人を単に怪しい人物にせず、「アーヤの母とかつて関係があった」設定を盛り込むこともできたのだという。
また、エンドロールでは物語の「その後」がたくさんのイラストで描かれている。これは、宮崎吾朗監督の「原作もそうなんですが、物語が突然終わるので、後日談みたいなものをちょっと描いてあげたら楽しいかな」という考えから生まれたもの。もともとは絵コンテとして描いていたものだったが、その後にエンディングの内容をスタッフと話し合った時に、「これをそのまま使おうよ」という話になったのだとか。
そんなわけで、ラストがあっけない(それでも原作から少し付け加えられている)のは原作を尊重するという明確な理由があり、その上でアーヤの母親の背景の掘り下げが行われ、エンドロールで物語のその後を描くというサービスもあるというわけだ。ラストの少し前に、アーヤが持ち前の、「したたかさ」を持ってして、魔女の家で自分の望む環境を手に入れているので、物語の一応の区切りもついている。
だが、それにしたって結末に物足りなさを覚えてしまうのは事実、というのは苦しいところだ。特にアーヤの母は「仲間の12人の魔女に追われている」という事情があったとはいえ、まだ赤ん坊のアーヤを孤児院の扉の前に置いたまま何年も連絡をとっていないようだから、どうしたって無責任なひどい母に思えてしまう。物語はあくまでアーヤの「したたかさ」を描くものなのではあるのだろうが、母のエピソードを付け足したことで、決着がつかないままの「親の責任」というモヤモヤしてしまう要素が増えてしまったところがある点も否めない。
また、エンドロールのイラストがあまりにかわいらしくて魅力的なので、今まで観てきた、それはそれでしっかりと作り込まれた3DCGアニメと比較するように、「やっぱりいつもの手描きアニメのジブリ作品が観たかったなあ」と、ないものねだりをする原因になってしまっているのかもしれない。
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