映画コラム
<考察>『アネット』カラックス過去作との決定的な“違い”とは?
<考察>『アネット』カラックス過去作との決定的な“違い”とは?
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18歳でカイエ・デュ・シネマで映画評を書き、24歳の時に観る者を圧倒する作品『ボーイ・ミーツ・ガール』(84)を放ったレオス・カラックス。『ボーイ・ミーツ・ガール』では分身といえるドニ・ラヴァンを通じて「非凡になりたい」と吐露していた彼は、『汚れた血』(86)、『ポンヌフの恋人』(91)でカリスマ的存在へ駆け上がった。
2012年の『ホーリー・モーターズ』では、彼の数少ないフィルモグラフィーを「混沌」で総括し、このまま映画を撮らなくなるのではと思っていた。
それから9年。長い沈黙の末、『アネット』が生み出された。彼は「息すらも止めて ご覧ください」と悪夢のようなミュージカルを生み出したのである。一見すると、『ボーイ・ミーツ・ガール』や『ポンヌフの恋人』などといった作品からかけ離れた無骨で歪な演出に困惑するであろう。
しかし『アネット』は、浮世離れした作品を生み出してきたレオス・カラックスが内なる加害性と向き合った作品である。
今回は過去作を批判し、昨今の#MeToo運動に歩みよった『アネット』について考察していく。
なお、本記事は作品の深いところまで考察していくため、観賞後に読むことをオススメする。
※本記事には『アネット』の結末に触れる部分があります。未鑑賞の方はご注意ください。
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1:レオス・カラックスによる汚れた血の物語
■自分について多くを語ることは、自分を隠す一つの手段でもありうる。
毒舌で破壊的なパフォーマンスで笑いの渦に包むスタンダップコメディアン・ヘンリー(アダム・ドライバー)。彼は一流オペラ歌手アン(マリオン・コティヤール)と親密な関係になる。マスコミは、2人を執拗にカメラで追い回す。ヘンリーはヘルメットを被り、内なる自分を隠そうとする。
ステージは聖域として機能しており、公共の場では仮面を被り自分を隠しているヘンリーは、アンがいない舞台上で毒舌を吐き続ける。そして、人々がそれを賞賛することで内なる暴力性が増幅されていく。
やがて、アンは妊娠する。生命の誕生に不安を抱きつつも希望の眼差しを向けるアンに対して、ヘンリーは不安で押し潰されそうになる。酒に溺れ始め、脳内の邪悪な存在が現実を侵食しはじめるのである。例えば、彼がウイスキーに酔う場面。赤子を尻で潰してしまうヴィジョンが浮かび上がる。白黒映画の群衆の笑いのイメージが彼を刺激し、そこに笑いを見出してしまうのだ。
ニーチェは「自分について多くを語ることは、自分を隠す一つの手段でもありうる。」と語った。ヘンリーは自分の内なる暴力を隠そうと饒舌になる。やがて舞台上で存在しないアン殺しを綿密に語るパフォーマンスを始めてしまう。
着実に名声を得ていくアンに対して、6人の女性が性的暴行を訴えヘンリーの評価が下がっていく中、逃げるようにして船旅に出る。そして嵐と共にアンは行方不明となり、告発の声も消え去り、彼は残された赤子アネットと第二の人生を歩むことになる。
そして、アネットの才能を使って再び富と名声を得ようとするが、ヘンリーの暴力性に懐疑的な指揮者(サイモン・ヘルバーク)の揺さぶりに耐えきれず彼を殺害。巨大なスタジアムでアネットが告発したことにより、ヘンリーは刑務所に入れられてしまう。
■レオス・カラックス映画における女性像
レオス・カラックスはデビュー作から一貫して女性を男性の葛藤や孤独を受け止めてくれる器として描いてきた。『ボーイ・ミーツ・ガール』では、社会から拒絶されるような孤独を抱えるアレックス(ドニ・ラヴァン)が街を彷徨う中でミレーユ(ミレーユ・ペリエ)と出会い親密な会話をする。ここではアレックスが一方的に、「非凡になりたかった」と自分の欲望を吐露し、死に直結するラストへと突き進んでいく。
『汚れた血』では、愛なきセックスにより感染する病に不安を抱く男アレックス(ドニ・ラヴァン)が、特効薬を盗もうとする過程で悲劇が起こる話だ。ヒロインであるアンナ(ジュリエット・ビノシュ)が天使のように死にゆくアレックスを介抱し、彼の血液を頬につけたまま疾走する。アレックスの痕跡を宿す存在として描かれているのだ。
『ポンヌフの恋人』では、道に倒れた大道芸人アレックス(ドニ・ラヴァン)が、盲目になりゆく女性ミシェル(ジュリエット・ビノシュ)と情事を育む話だ。社会がミシェルを探しはじめると、アレックスは彼女のポスターを剥がしていき、隠そうとする。自分のものにしようとした彼は彼女と無理心中に近いことを行う。
(C)Pierre Grise Productions
このように男性の一方的な感情を女性にぶつける作品を作り続けるレオス・カラックス監督。『ホーリー・モーターズ』では、別の角度からこのテーマを描こうとしている。ゴジラのテーマを背に暴れる怪人メルド(ドニ・ラヴァン)のエピソードに注目する。「ここを訪れて」とurlが書かれた墓石に囲まれた空間を、メルドが暴れながら突き進んでいく。
その先では、モデルの撮影会が行われており群衆が詰めかけている中、カメラマンが嬉々として彼女を撮っている。メルドはその空間を破壊し、彼女を誘拐。地下へ運び込む。そして、ヒジャブを被らせようとする。これは、群れの匿名性の暴力を示唆しているように見える。
公共の場で自分を隠すために、墓石にurlを刻む。和を乱す存在が現れたら蜘蛛の子を散らすように逃げる。モデルは、好奇の目で消費されていく。群れの中の匿名性に紛れると、人は安易に同調し、それが大きな運動(=暴力)に繋がっているといえる。メルドの誘拐は暴力でもって暴力から解放するアクションとなっていると考えられる。
他の作品と比べると、男性の女性に対するアクションに対して掘り下げられている印象はあるものの、この挿話も男性が女性を占有する話に着地してしまっている。
■「汚れた血」と向き合う物語
『アネット』はこれらのカラックス作品を踏まえて観ると、自らの加害性に向き合った作品だといえる。従来の作品は、女性を男性の葛藤や孤独を受け止めてくれる器として描き、死を感傷的に描く傾向があった。死亡したり、死から救うことで、感傷的な物語を紡いでいた。しかしながら、今や男性の暴力性を死や救済でなかったことにする時代ではない。
#MeToo運動により、過去のパワハラ/セクハラが告発されている。過去だからといって水に流すことはできず、正面から向き合う必要があるのだ。そして、謝罪すれば解決する問題でもない。そのため、ヘンリーを生かさず、殺さず、逃げずに140分描き続けることで、内なる加害性と対峙させるのである。
レオス・カラックスの真摯な態度はラストに現れている。殺人の罪で刑務所に入れられたヘンリーの前にアネットが現れる。ヘンリーは歌で、彼女の人生論を語りはじめるが、彼女はそれを拒絶するのである。お涙頂戴の再会シーンの構造でありながら、安易な和解をさせることはしない。
そこに赦しはない。今まで多くの人を身体的に精神的に殺してきたヘンリーは、刑務所で時間を殺し自分と向き合うことでしか罪を償うことができないのだ。ヘンリーの顔には、血痕が残っている。『汚れた血』におけるジュリエット・ビノシュの頬に付着した血痕と重ね合わせ、レオス・カラックスは女性に男性を救わせる演出から卒業したことを物語っている。
つまり、『アネット』はレオス・カラックスによる「汚れた血」の物語だったのである。
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