アニメ映画『バブル』を全力で称賛&解説|“マイノリティー”と“世界の肯定”の物語だった
3:ヒビキにとって、ウタはどんな存在だったか
『バブル』で拒絶反応を起こす方が多い要素として、ヒロインのウタのキャラクター性がある。彼女は初めからヒビキに懐いていて、彼のことをずっと肯定してくれて、そして恋までもしているように思える、言ってしまえば都合の良い存在だ。彼女は『惑星ソラリス』(72)のような姿形を変える知的生命体であり、主人公にとって都合が良いのは実際に「そういう存在だから」でもある(ノベライズ版では具体的な泡やウタの設定、なぜ地球にやってきたか、ヒビキと出会った理由などの考察が語られている)。劇中では「なんか変な格好だしよ……」や「まるでニワトリとヒナね」や「よくあんなヤツに懐いたよな」といった批判的な言葉も投げかけられているが、やはり賛否両論を呼ぶ理由にはなっているだろう。
だが、筆者はウタが単なる都合の良い存在、恋をする相手というだけでなく、ヒビキにとっての「できることを通じて得た好きという気持ち」「アイデンティティー」「生きる理由」の象徴として考えれば、大いに納得ができた。
ヒビキは子どもの頃から聴覚過敏であることに悩み、母親は彼を自分の手で育てることを諦め、施設に預けた。しかし、ヒビキは「音を嫌いになりたいわけじゃない、本当はずっと探しているんだ、あの音を」とも口にしている。その気になる音(歌)のする場所に行って出会ったのが、ウタだった。そしてヒビキはウタに自分の過去を話し、パルクールで共に駆けて行き、勝利を掴んだ後の夜、ウタにこう言う。「ずっと俺だと思っていたのは、俺じゃなかった。ウタが来て、初めて俺になった」と。
ヒビキは初めからパルクールが得意であり、チームのエースとして活躍している。でも、楽しくはなさそうだった。最年少のウサギを助けたりすることもあるが、結局は置いて行ってしまうし、その他のチームメイトと打ち解けるそぶりもない。だが、ウタと駆けて行ったヒビキは、ヘッドホンを落としてもそのまま駆けて行き、その後のパーティーでもチームに感謝を告げる(さらにノベライズ版では、ヒビキが周りと違って“普通”になれない心情が細やかに描かれている)。
現実には、ウタのような都合の良い存在はいない。だが、何か今できることをやっていて、それ自体が好きになれた瞬間、それをもってアイデンティティーにできた、周りと打ち解けたり、生きる理由になったという方は、現実にいるだろう。ウタのような「きっかけ」は、どんなことにおいてもあるはずなのだ。
また、ヒビキがあっさりと聴覚過敏を克服した(ように見える)ことに対して、障害を軽く考えすぎじゃないか、という意見も見かけたが、筆者はそうは思わない。荒木哲郎監督は実際に当事者に話を聞き、街中の踏み切りや扉の開閉といった「人工音」を苦痛に感じるのに対し、水の流れる音や木々の葉が擦れ合う「自然音」には癒されると聞くなど、十分なリサーチをしている。それをもって、ヒビキとウタのいちばんの思い出となる場所は「自然音の塊」のようにするという、舞台の構築も行ったのだそうだ。
また、大人になってからの聴覚過敏は、心因性のものも多いという。筆者は当事者ではないので簡単にわかったような気になっていけないが、「今できること」を続けていくうちに、何か悩みや心因性の病気が克服できるようになることは現実にある、だからこそ希望になると思うのだ。
さらに余談だが、パンフレットの荒木哲郎監督の言説によると、ウタは映画『道』(57)のようなしゃべらないヒロインを、ヒビキがチームメイトと打ち解けていく過程は『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』(14)を参考にしたのだという。彼らのコミュニケーション自体が現実離れしているので賛否両論を呼びやすいのだが、根底には名作映画からの引用があったのだ。
4:ウタが学び、知ったこととは何か
ウタは終盤に、自分を連れ戻そうとする知的生命体の集合を「姉様」と呼ぶ。このことに唐突さを覚えてしまった方は少ないないだろうが、これはウタ自身が童話「人魚姫」から引用した呼び名にすぎない。荒木哲郎監督によると、ウタは自分が習った言葉しか話せない設定であり、「人魚姫」を読んで得たボキャブラリーの中から、泡、つまり自分を連れ戻しにきた存在を見て、「姉様」という言葉が出た、ということなのだそうだ。
参考:【ネタバレあり】日本が『にんぎょ姫』をアニメ化したら重力が壊れてパルクールをした:映画『バブル』荒木哲郎監督にインタビュー | ギズモード・ジャパン
これ以外にも、ウタは見たり、教えてもらったことを積極的に学んでいる。初めにネコのように四つん這いのまま飛んだり跳ねたりしたのも直前にネコに遭遇したためであるし、ヒビキからはパルクールにおける身体の動きも教わっていた。マコトから自然界に“渦”があることを聞き、フィボナッチ数列(自然界によく現れる法則)の渦の図形も描いていたのは、彼女もまた自然から生まれた存在であることを示しているのだろう(実際にラストでマコトは渦を見上げ、ウタの存在を感じ取る)。
本作はその「学び」こそを肯定していると言っていい。ノベライズ版のみにあるエピソードでは、ヒビキたちは東京に残された高齢者に日用品を運ぶ仕事をしており、その高齢者から「作家の言葉があなたという人間を構成する」「知識が人格を作るのよ」などと諭される場面がある。
ウタは初めこそ純粋を超えてただ親についてくる子どものようであったが、マコトを拉致したアンダーテイカーに対し、カイの言葉も借りて「ボコす」と怒りの感情を見せるなど、人格のある存在として描かれるようになっている。
そして、ウタは「人魚姫」の物語を読んでいて、泡になって消えてしまう悲劇的な結末を迎えるはずの、人魚の幸せを学んでいた。だからこそ、最後に同じように自身が消えてしまう前に、その「人魚姫」の一説を心の中で語ると同時に、ヒビキとの幸せな日々も思い出していた。
さらに、ウタは前述したヒビキの「ずっと俺だと思っていたのは、俺じゃなかった。ウタが来て、初めて俺になった」という言葉に呼応するように、「ヒビキに会えたから、私は私になれた。これが人の心、さみしいと思う心、誰かを愛おしいと思う心」と言い残し、消えていった。
そのウタの言葉は、「人魚姫」を読んだだけでは、絶対に知り得ないことだったろう。ウタは最後に、悲劇的な「人魚姫」の物語という単純な知識を超えた、人の感情や愛情の素晴らしさを知ったのだ。それをもって、ウタもまたアイデンティティーを獲得し、本当の意味での幸せをも知った物語の、なんと感動的なことだろうか。
また、マコトが「人魚姫」の物語を「嫌い」と言っていたように、「消えてしまったけど幸せでした」という内容は、それだけを表面的に捉えれば、欺瞞に思えてしまうかもしれないものだ。『バブル』はその「人魚姫」の物語を真摯に語り直し、また新たな価値を見出すという意義もあるのだ。
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