映像業界の働き方

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2023年07月22日

諏訪敦彦 監督が語る映画教育┃「僕は常々学生たちに“自由であれ"と伝えています」

諏訪敦彦 監督が語る映画教育┃「僕は常々学生たちに“自由であれ"と伝えています」


役割を外したとこに「映画」がある


──諏訪監督は、大学ではどのようなスタンスで学生と関わられているのでしょうか? 

諏訪:具体的に「こうしなさい」「ああしなさい」と指示することはないですね。「教える/教えられる」という関係だと、常に学生を未熟な存在として扱い自分の知見を披露することになってしまいますが、私の知っていることなんて相当限られています。なので、その関係性がどんな局面でも交換可能であることを前提に、教えるというより「一緒に探求する」というスタンスです。

しかし、日本の大学教育は非常に危機的な状況にあると思います。というのも、我々教員は授業の目的を提示し、目に見える成果が求められるようになってしまったから。客観的に、この授業では何を学び得られるのか説明できないと、授業として成立しなくなってきています。

──成果主義の方向に向かっているということですね。

諏訪:この流れは日本だけではありません。もちろん実務的な成果が必要な場面もありますが、私が直感的に思うのは、教育にとって大事なのは「人」の部分なんです。その人自身が成長できること、社会に出たときに役立たないとされる文学や芸術、哲学を学ぶことも、その人自身の豊かさを育むものですよね。しかも、そういう「何のためかわからないことを学べる」唯一の場所が大学。無駄を端に追いやってしまうと、社会全体が痩せ細ってしまうと思います。

──役割を学ぶことは必要だけれど、いつの間にか自分の可能性を閉ざしていることもありますよね。諏訪監督の著書『誰も必要としていないかもしれない、映画の可能性のために』(フィルムアート社)を拝読し、冒頭「こども映画教室」で「役割分担をした途端、それぞれの役割の中に閉じこもってしまう。人間同士の関係のなかで映画を作ってほしい」と書かれていて、私自身幼い頃こども映画教室でまったく同じことを感じていました。

諏訪:役割があれば、事を進めていくのは簡単になりますよね。でも、役割を外すと「人」が見えてきて、私とあなたで対峙することになる。意見はバラバラだし、声が大きい人と気が弱い人とでは伝わり方も違い混沌としますが、果てしのない議論とモヤモヤとした関係性のなかでつくっていくと、誰かの指示ではなく自らの表現として考えるので「私たちの映画」になるんです。

効率は悪いし難航しますよ。ですが、決まらないことはない。さまざまな壁にぶつかりながら考えて決断を繰り返すことで、人としての成長は圧倒的だと思います。なので大学も、想定された成果だけを求めるのでなくプロセスや思いがけない成果も重視してもらいたいです。

──ただ、実際の映画の現場に入ると、監督、カメラマン、美術、俳優など役割が明確にわかれていますよね。

諏訪:実際に映画はシステムのなかでつくられていますから。それを知らなければなりません。労働環境について問われているなかで制約もありますし、数々のタスクをこなすことが社会人として必要とされるでしょう。ですが、システムにのまれては、同じような創作が再生産されるだけで、創造は生まれません。

私も台詞の書かれた脚本を用いないように、ルールに則っていなくても映画はつくれる。システムを疑って、自分から自由をつかんで探求すること。それを手放してしまうと、一気にシステムに組み込まれて、経験や効率優先で組織の歯車になっていくわけです。もちろん、若いときはそういう時期もあります。そんなときでも、そっとその手に自由を握りしめていてほしい。その核をつかむための時間が大学であってほしいですね。


──先ほど監督がおっしゃっていた、自由になるステップというのは具体的にどういうものなのでしょうか?

諏訪:私の造形大時代の教え子が話していたのが、造形大では「映画とは何か」「なぜ映画をつくるのか」という根源的な問いかけを、常日頃していたし同級生とも話していた、と言っていました。しかし、現場に出るとそんな問いを誰も持っていない。むしろ、邪魔なものとされてしまうことに愕然としたと言っていました。

たしかに、考えるよりも手を動かす時期もありますが、根源的な問いかけなしに創作をすることは難しいと思います。経験値だけで作ってしまえば、今あるものの再生産を続けるしかできない。その気持ちを持ち続けることは、とても大事ですよね。作法を外したところに創作があって、映画そのものにぶつかって、初めて映画と出会うように作りたいと常々思っています。そういうエネルギーがないと、死んでいってしまうメディアですからね。

わかりあえる前提では、ハラスメントはなくならない


──諏訪監督はaction4cinemaでも活動されていて、持続可能な映画業界の未来に向けてさまざまなアクションを起こしていらっしゃいます。たとえば、労働環境の改善について学生の反応の変化や学校としての変化はありましたか?

諏訪:藝大でも、撮影時間のルールを規定しました。撮影のスタートから撮影終了まで8時間以内、5日撮影したら1日休むなど。あとは、ハラスメント講習を教授もふくめた全員で受けています。若い世代は人権意識が高いので、関心もあるなと感じます。上の世代は「腹を割って話せば大概わかりあえる」とよく言いますが、それは他者性を殺すということ。わかりあえるはずという前提では、ハラスメントはなくならないと思います。学生たちは相手を尊重し、フェアであろうとする意識が強いなと感じます。

──最後に、批評家視点についてお伺いできますでしょうか。フェミスでも映画分析という授業があるように「批評」は映画文化に必要なものではありますが、批評雑誌は衰退の傾向にあり学ぶ機会も少ないです。しかし、価値観が多様だからこそ批評家的な視点を学ぶことで、また違う角度から映画業界をまなざすことができるのではないかと思うのですが、いかが思われますか?

諏訪:私が大学に行ってよかったと思うことのひとつに、哲学的な思考を学んだことがあります。初めてフランスの批評家ロラン・バルトの映像論(*)を読んで、ここまで映像を言語化して解析するんだと、その情熱や欲望に驚きました。そうして、経験的に知っているはずの世界を疑うことで、習慣化された思い込みから解かれる感覚になりました。それが「自由」ですよね。

*.......フランスの批評家・思想家であるロラン・バルト(1915-1980)は「第三の意味」「映画における意味作用の問題」など、たくさんの映画論文を世に残した。

そうすると視野がぐっと広がります。私は学生時代からたくさん助監督をやっていたので現場の経験はあったのですが、そのまま監督をしていたら、映画は作り続けられなかったでしょう。経験だけでは到達できないことがあります。その意味で大学での学問との出会いは大きかったですね。批評にもそういう新しい視点を創造する働きがあると思います。自分と違う価値観を知り、それを探求したり根源的な問いを持ったりすることで、自分にある自由と創作の何かがつかめるのだろうと思います。

Profile

諏訪 敦彦
1960年、広島県生まれ。1985年、東京造形大学造形学部デザイン学科卒業。在学中から山本政志や長崎俊一らの作品にスタッフとして参加する。1985年、在学中に制作した『はなされるGANG』が第8回ぴあフィルムフェスティバルに入選。大学卒業後はテレビのドキュメンタリー番組を多数手がける。1997年、『2/デュオ』で商業デビュー。同作はロッテルダム国際映画祭やバンクーバー国際映画祭などで賞を獲得する。その後、1999年制作の『M/OTHER』で第52回カンヌ国際映画祭にて国際批評家連盟賞を受賞し、2005年に制作された『不完全なふたり』では第58回ロカルノ国際映画祭において審査員特別賞と国際芸術映画評論連盟賞を受ける。東京藝術大学大学院映像研究科の映画専攻にて教授を務める。2022年より是枝裕和監督と共同代表を務める日本版CNCを求める会のaction 4 cinemaの活動も行う。
(撮影=前田立、取材・文=羽佐田瑶子)

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