八十年前の八月十五日、日本は敗戦を迎えた。
あの日から流れた時間は、私たちの記憶に静かに澱(おり)を残しながら、それでも少しずつ色を薄めつつある。
――だが映画のフレームは、過去をいきいきと呼び戻す。
今週は「戦争」という巨大な闇を〈陸・海・密林〉の三つの位相で照射する三本を取り上げたい。
フィルムの中で点滅する命の火が、2025年の私たちにどんな熱を伝えてくるのか。
その“体温”を確かめる小さな旅へご案内しよう。
金曜映画ナビ〈戦後80年 終戦記念特集〉第1週 9 時間31 分に刻まれた“戦争と良心”──小林正樹『人間の條件』を観る夏
1 砂塵をあげて進む“軍神”――『西住戦車長傳』

(C)1940松竹株式会社
1940年。
まだ戦線が勝利の熱気に包まれていたころ、松竹は一人の若き戦車長を英雄譚としてスクリーンに送り出した。
モデルは日中戦争で戦死後、「昭和の軍神」と呼ばれた西住小次郎。
監督を託された新人・吉村公三郎は、軍部の後援という重圧の下であえてホームドラマの温度を導入した。
映画の前半を流れるのは、士官学校出のエリートではなく「誠実な兄ちゃん」としての西住像だ。
上原謙の楚々とした笑み、桑野通子演じる中国人少女との異文化の触れ合い。
――しかし、物語はやがて砂塵渦巻く戦車隊の突撃へなだれ込む。
轟く砲声、本物の八九式中戦車が突っ走るロングショット。
その迫力は観客を高揚させながら、同時に〈ひとの命を奪う鉄の塊〉の異様さを映し出す。
吉村は終盤、英雄の最期を決して浪漫で包まない。
煙の向こうで炸裂した榴弾、戦車が停止する一瞬の静寂。
死は唐突で、むしろ淡白だ。
観客は鼓膜に残った爆音と、黒煙にかき消えた若者の未来だけを抱えて席を立つことになる。
宣伝映画という檻のなかで、監督が密かに滑り込ませた“空洞”――それは戦争が一人の青年の時間を一挙に奪い去ったという事実だ。
英雄の銅像の足元でざわめく、微かな不条理の風。
その手触りは、八十年後の私たちの肌にもいまだ冷たく残る。

(C)1940松竹株式会社
2 蒼い海を漂う“不沈艦”――『駆逐艦雪風』

©1964松竹株式会社
戦後十九年を経た1964年、松竹が送り出したもう一つの海の物語。
それは大艦巨砲の浪漫でも、勝利の凱歌でもない。
長門勇が演じるコック兵士・木田勇太郎が乗り込むのは、奇跡的に生還を重ねた駆逐艦「雪風」。

©1964松竹株式会社
映画は冒頭、造船所での進水式をドキュメンタリーさながらに見せる。
真新しい艤装の輝きの向こうに、やがて消えゆく青春の影がうっすらと映り込む。
木田と艦長の妹(岩下志麻)との淡い恋、特攻で散る弟――松竹得意の人間ドラマが、戦場へ持ち込まれる温かい湯たんぽのように観客の胸をあたためる。
だが、護衛艦ゆきかぜ(海上自衛隊の実艦)を使った実景撮影と、手作りのミニチュア特撮が組み合わさる海戦シーンが始まると、物語は一転して塩辛い海風を吹かせる。
凪いだ甲板に突然降り注ぐ機銃掃射、爆雷の水柱。雪風は沈まない。
沈まずに生き残り、傷ついた僚艦の乗員を拾い上げ、生き残った者同士で涙を流す。
映画が辿り着く終局は、勝利でも敗北でもない。
終戦の日、軍服を脱いだ木田たちが修理を終えた雪風を見送り、その船が賠償艦として異国へ去っていく姿に黙礼する――それだけだ。
ここで鳴る主題歌「あゝ太平洋」は凱旋の歌ではない。
うねるメロディの向こう側にあるのは「生きて、海を渡る船を見送る」という、かろうじて掴んだ未来の淡い光である。
雪風の伝説は、不沈の武勲よりむしろ〈必死で人を救って帰った〉という一点にこそ輝きを放つ。
そこに漂う“命をつなぐ”という穏やかな倫理は、戦後の平和国家の胎動を映しているようにも思える。

©1964松竹株式会社
3 密林で嗤う“無名戦士”――『野火』

(C)2014 SHINYA TSUKAMOTO/KAIJYU THEATER
そして2015年。
終戦から七十年の節目に発表された塚本晋也監督・主演『野火』は、戦争映画の語法を一度解体し、観客を戦場の地獄へ丸ごと放り込む。
原作は大岡昇平。
肺病を患った田村一等兵が部隊を追われ、フィリピン・レイテ島の密林を彷徨する物語だ。
塚本のカメラは常に揺れ、息づかいを捕まえ、空の青と血肉の赤を暴力的に並置する。
弾はどこからともなく飛んでくる。
敵兵は影のように姿を見せず、死体だけが増える。観客は田村の痩せ衰えた身体に憑依し、飢え、渇き、狂気を一緒に飲み込む。

(C)2014 SHINYA TSUKAMOTO/KAIJYU THEATER
決定的なのは、人肉食のタブーを真正面から映した点だ。
原作が孕んでいた倫理の底なしの闇を、塚本はカラー映像で剥き出しにする。
ジャングルの葉陰で蠢く腐肉と蠅の群れ。
それでも「生きたい」と願う小さな炎。
――上映後、誰もすぐには席を立てない。
塚本は言う。
「戦争は、人をここまで引きずり下ろす。だから絶対に繰り返してはいけない」。
自主製作ゆえの制約が、一層の切迫感を呼び込み、ホラー映画のような“体感”が出来上がった。
毎夏アンコール上映が続くのは、この映画がただの歴史再現ではなく〈未来への警鐘〉として鳴り続けるからにほかならない。

(C)2014 SHINYA TSUKAMOTO/KAIJYU THEATER
4 “八十年”をめぐる、三つの問い
- 記憶は誰が紡ぐのか
『西住戦車長傳』が掲げた軍神像は、たちまち風化した。しかし上原謙の真摯な瞳は、いまもスクリーンで「若さが戦場に捧げられた」という痛みを語る。 - 生還は罪か、祝福か
雪風は沈まない。沈まなかったがゆえに、乗り組んだ者たちは沈んだ仲間の名を一生抱えて生きる。その重さを木田の背中はそっと語りかける。 - 人間はどこまで崩れ得るのか
塚本の『野火』が突きつける最大の問い。敵も味方もなく、自然は無言のまま。極限で剥がれ落ちる倫理は、私たちの“すぐ隣”に潜むのではないか。
結びに代えて
八十年という時間は、数字としては長い。
しかしフィルムに焼き付けられた戦場の煙は、リールが回るたび新しい“現在”を立ち上げる。
戦車の履帯が巻き上げる砂塵、駆逐艦の艦尾に立つ海水のカーテン、密林にこだまする乾いた銃声――それらは今夜も再生され、観客の胸に届く。
もし劇場の暗闇で、あなたの心に小さな痛みが芽生えたなら、その痛みこそが〈戦後〉を八十年生き延びてきた証だ。
痛みを忘れず、次の世代へ手渡していく。
それが、映画が私たちに託した「終わらないラストシーン」なのだ。
金曜映画ナビ〈戦後80年 終戦記念特集〉第1週 9 時間31 分に刻まれた“戦争と良心”──小林正樹『人間の條件』を観る夏
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『西住戦車長傳』
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