『千と千尋の神隠し』物語を読み解く8つのポイント、『君の名は。』との意外な共通点とは?

© 2001 Studio Ghibli・NDDTM


本日金曜ロードSHOW!で放送される『千と千尋の神隠し』。日本の累計興行収入は308億円を突破して歴代1位、国内外で数々の賞を受賞、地上波放送では圧倒的な高視聴率になり、2016年に企画された“ジブリ総選挙”で本作が上映されると劇場が連日満席になる、など、歴史に残る大ヒットを記録するのはもちろん、公開から15年が経過した今でも世界中で支持を得ている作品です。

本作はその幻想的で唯一無二の世界観、少女の冒険物語という要素だけでも存分に楽しめますが、いくつかの奥深い要素も持っています。たとえば、宮崎駿は本作の“課題”について以下のように明言していました。

「今日(こんにち)、あいまいになってしまった世の中というもの、あいまいなくせに侵食し尽くそうとする世の中を、ファンタジーの形を借りて、くっきりと描きだすことが、この映画の主要な課題である」

この宮崎駿が掲げた言葉をもとに、本作の狙いと、“くっきりと描き出したこと”がどのようなものであったかを、以下に記していきます。

※なお、以下からは本編のネタバレが多分に含まれていますので、これから映画をご覧になる方はご注意ください!

1:はじめの千尋は“与えられたもの”だけでは満足できない子どもだった

本作は、主人公の千尋の成長の物語の物語と考えることができます。映画の冒頭では、千尋がまだ10歳の少女らしい“幼い”振る舞いをしていることがわかるでしょう。

・千尋は新しい家に向かう車の後部座席に寝転んで、不満そうな顔でいる

・千尋は自分が通うであろう小学校を見て“あっかんべー”をするうえ、「前の方がいいもん」と言っている

・千尋は友だちに“お別れ”のためにもらった花束をずっと握りしめていたため、しおれさせてしまう

・千尋が「初めてもらった花束が、お別れの花束なんて悲しい」と言うと、お母さんは「この前のお誕生日にバラの花をもらったじゃない?」と返すが、千尋は「1本ね、1本じゃ花束って言えない」と不満そうだった

ここから、千尋は両親の勝手で引っ越し(転校)をせざるを得なかったこと、新しい場所に行くことなんて望んでいなかったこと、“1本の花”では満足できないほどに物質的な豊かさを望んでいたこと、その物質的な豊かさだったはずの“花束”も“自分のせい”で台無しにしてしまったこと、などが分かります。

物語のはじめの千尋は“与えられたもの”が豊かでなかったことと、新しいことを受け入れられないためにふてくされてしまっている、受動的にしか物事と向き合えない子どもなのです。

2:両親の姿はバブル時代の狂乱そのもの?

千尋のお父さんは、トンネル前の壁に触って「なんだ、モルタル製か。結構新しい建物だよ」と、トンネルを抜けた先では「間違いないな、テーマパークの残骸だよ。90年頃にあっちこっちでたくさん計画されてさ、バブルがはじけてみんな潰れちゃったんだ。これもその1つだよ」と語っていました。

その後、お父さんとお母さんは、千尋の「帰ろうよ、お店の人に怒られるよ!」という制止の言葉も聞かずに、勝手に暴飲暴食をしてしまうのです。その時、お母さんは「いいわよ、そのうち来たらお金払えばいいんだから」と、お父さんは「大丈夫、お父さんがついてるんだから。カードも財布も持ってるし!」と、“お金があるから問題なく解決できる”という物言いをしているのです。

90年代のバブル時代は、日本中が好景気に沸き、(お父さんの言った通り)あちこちで無計画な娯楽施設も乱立され、多くの人がお金という価値に溺れていた時代です。“お金があるから、勝手に食べても大丈夫”というこの両親の姿は、バブル時代の痛烈な批判とも言えるのではないでしょうか。

そんな両親が豚の姿になってしまうということは、そのままバブル時代のお金が至上主義だった価値観の醜さ、子どもにもその価値観を押し付けることや、子どもに対して無関心なままでいる危険性を示しているのではないでしょうか。千尋はお金がどうこうではなく、トンネルを抜けた先の世界に不穏さを感じていたことを訴えていたのに、両親はそれを聞こうともしなかったのですから。

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3:湯屋はキャバクラの暗喩だった?

実は宮崎駿は、鈴木敏夫プロデューサーのキャバクラ好きの知人による話を元にして、『千と千尋の神隠し』の湯屋を“キャバクラに見立てた”物語を作ったのだそうです。

その知人の話というのが「キャバクラに働きに来る女の子たちは、もともと引っ込み思案で、人とのコミュニケーションが上手くできない子が多い。ところが、必要に迫られて、一生懸命いろんなお客さんと会話をするうちにだんだん元気になっていく」というものだったのだとか。

そういえば、劇中の湯屋は大浴場がなく、それぞれのお風呂が仕切られていて、迎え入れるお客の神様たちが“男性”のみに見えるなど、いかがわしい雰囲気もあります。どうしても、キャバクラのような“夜のお店”を想起させてしまいますよね。そんな環境で10歳の女の子を働かせるなんてとんでもないことですし、夜のお店でなかったとしても立派な児童福祉法違反です。

しかし、それは今の恵まれた時代だからでこその常識です。ドラマ「おしん」のように、戦前の日本では年端のいかない少年少女が“奉公”に出て、親元を離れて労働に従事することがよくありましたし、日本以外の国では今でも子どもが働くしかないほどに経済的に困窮していることもよくあります。

つまりこの『千と千尋の神隠し』という物語は、現代の飽食で、何もかもが与えられている(しかもバブルを通りすぎた)時代の10歳の少女の千尋に対して、戦前の日本にあったような“どうしてもそこで働かなければならない”という試練を与えているのです。

働かなければならなくなった結果、千尋はたくましく成長していきます。ハクに言われた通りに「ここで働かせてください!」と湯婆婆に訴え、知恵を絞りに絞って懸命にお客さんの接客をして、ついには少女のリンに「お前のこと、どんくさいって言ったけど、取り消すぞー!」と言われるまでになるのですから。

これは、キャバクラや戦前の日本というだけなく、偉い人のご機嫌を伺ったり、厳しい労働をしなければならない、だけど親切な先輩もいる、などといった点において、人間が生きる“社会の縮図”とも言えるかもしれませんね。

大人に与えられているだけでは子どもは成長しない、どこかの世界に飛び込んで、働いてこそ、何かを得ることができるのだと……。こうして物質的に恵まれている今の時代であるからこそ、私たちは『千と千尋の神隠し』に学ぶことがあるのかもしれません。

4:カオナシとはなんだったのか?

カオナシは、千尋に窓を開けてもらったことから湯屋に入り込み、番台の前で困っている千尋に薬屋の札をあげて、喜んでいた千尋にさらにたくさんの札をあげてしまっていました。あまつさえ、カオナシはカエルや男を食べ、その者たちの声で喋り、ニセの金を出して道楽の限りをつくし、最終的には湯屋をめちゃくちゃにしてしまいます。

先ほどの湯屋がキャバクラの暗喩という話を借りれば、カオナシは“キャバクラ嬢に声をかけてもらったからお店に来たけど、口下手どころかコミュ障ぎみ。他人(カエル)の言葉を借りないとしゃべることもできないけど、金持ちなのでチヤホヤされる。でも最終的には暴れる”というハタ迷惑なお客と言ってもいいでしょう(笑)。

もしくは、カオナシは“与えるだけ”の大人(精神的には子ども?)の暗喩とも言えます。カオナシが与えようとするのは、千尋が一度は欲しがった札や、みんなが欲しがっている金という、物質的なものだけ。千尋は、そんなカオナシが出す大量の金を目の前に「あなたは来たところへ帰った方がいいよ。私が欲しいものは、あなたにはぜったい出せない」と突っぱねているのですから。

冒頭では“1本のバラ”にも不満を漏らし、物質的な豊かさを求めていたような千尋でしたが、ここでは明確に自分の求めるものを理解し、さらにカオナシがそれを叶えることができない(千尋自身が行動して掴み取るしかない)、と言っているのです。なんという成長でしょうか!

嬉しいのは、そんなカオナシであっても、銭婆のところで糸を紡ぐ仕事を手伝えるようになっていたこと。カオナシが欲しがっていたのは、千尋がこなしていたような“仕事”であり、“自分を必要としてくれる人”だったのかもしれませんね。

ちなみに、そんなふうに物語で重要な存在となっていくカオナシは、元々は橋の上にちょっと出てくるだけの脇役だったのだとか。鈴木プロデューサーは製作途中で、宮崎駿から3時間を超える冒険活劇にするか、それともカオナシのキャラクターを膨らませて2時間の映画に納めるかの選択を迫られて、後者を選んだのだそうです。

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