映画コラム
高畑勲監督の最高傑作は『ホーホケキョ となりの山田くん』である! 厳選5作品からその作家性を語る
高畑勲監督の最高傑作は『ホーホケキョ となりの山田くん』である! 厳選5作品からその作家性を語る
4月5日、アニメーションという芸術に多大な功績を残した巨匠・高畑勲監督が亡くなりました。82歳でした。
氏の作品で「観たことがある」と多くの方が答えるのは、4月13日に金曜ロードShow!でも放送される戦争映画『火垂るの墓』、OLが田舎に出かけるドラマ『おもひでぽろぽろ』、狸と人間たちの戦いを描いた『平成狸合戦ぽんぽこ』、誰もが知る「竹取物語」を再解釈した『かぐや姫の物語』でしょう。あるいは、テレビアニメ『赤毛のアン』『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』を子どものころに観ていて大好きだった、という方も少なくないはずです。
妥協のない作品作りでも知られる高畑勲監督は、その長いキャリアで多数の名作を世に送り出しました。ここでは、おそらく観た人が少ないであろう、今こそ観て欲しい高畑勲監督による5つの名作を紹介します。
1.『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)
高畑勲が長編劇場用アニメで初めて監督を手がけた作品です。物語のテンポは早く、50年前のアニメとはとても思えないなめらかな作画、美しい歌の数々、躍動感のあるアクション、何よりワクワクできる冒険の面白さが存分に詰まった楽しい映画に仕上がっていました。
とは言え、夢いっぱいの物語というわけではなく、かなりシビアな問題が顔を出すというのも大きな特徴です。村の人々が疑心暗鬼に陥ってしまう展開は観ていて辛いものがありますし、ヒロインが隠している境遇は過酷そのもの。暗いトーンの画、はっきりと恐怖を覚えるシーンも少なくはありません。子どもが観る映画でも、安易な勧善懲悪やファンタジーに止めることなく、“現実”を描くという高畑勲監督の作家性が、この頃から存分に表れていると言っていいでしょう。大人が今観ても、メッセージ性の高さ、奥深さを感じる内容になっているはずです。
2.『パンダコパンダ』(1972年)
見た目はとてもかわいらしく、内容もどたばたしたコメディが主軸の楽しい作品……なのですが、「主人公の女の子がおばあちゃんを法事に送り出し、しばらく1人暮らしを始めようとしている」という物語の発端に驚く方は多いのではないでしょうか。“両親がいない”ことを何でもないことのように明るく話す女の子はしっかり者に見えますが、だからでこそ「寂しい思いをしているのではないか」と不安にもさせるのです。
『となりのトトロ』の原型と言っても過言ではない作品で、“パパンダ”のずんぐりむっくりとした体型はトトロそっくりですし、女の子の何かの夢(父親代わりになってくれること)を叶えてあげるということも共通しています。「しっかりした女の子だけど実は無理をしているんじゃないかな」と思わせることも、『となりのトトロ』のサツキを連想させますよね。実際に宮崎駿が原案と脚本と画面設定を手がけていますし、(高畑勲監督の作家性はもちろんのこと)“宮崎駿監督らしさ”も感じるところが多いのかもしれません。
なお、続編となる『パンダコパンダ 雨ふりサーカス』では、『崖の上のポニョ』の原型と思われる“いつも知っている街が水に沈んでしまう”という展開があります。こちらはよりハチャメチャで楽しい内容になっているので、お子さんと一緒に観てみるといいですよ。
※『パンダコパンダ 雨ふりサーカス』と『崖の上のポニョ』の関係はこちらの記事でも触れています↓
□『崖の上のポニョ』徹底解説!なぜ両親を呼び捨て?トンネルの意味は?
3:『劇場版 じゃりン子チエ』(1981年)
タイトルやぱっと見のイメージではおてんばな女の子が騒ぎ立てる物語……では全くなく、実は主人公のチエちゃんは、『パンダコパンダ』の女の子以上にしっかり者で、めちゃくちゃ良い子! バクチ打ちでロクデナシの父親に代わって1人でホルモン焼き屋をきりもりをしており、願っているのは父と母とまた一緒に暮らしていくこと。さらにはいじめっ子にも決して屈さず、ダメな大人のことをたしなめたりもするのです。誰もが彼女を応援し、その幸せを願いたくなるでしょう。
キャラクターがみんな生き生きとしており、ロクデナシの父親でさえもどこか憎めない。関西弁の会話劇は耳に心地よく、時にはハッとする“名言”も記憶に残り、ずっとこの世界と物語に浸りたくなる……そんな魅力に満ち満ちています。なんでもなさそうな日常を丹念に描くことで“人間の愛おしさ”を表現する高畑勲監督の作家性が、原作となるマンガとの相性が抜群でした。
見所となるのは、後半にある“遊園地”のシーン。その繊細な表現の数々だけで涙腺が刺激されますし、主人公のチエちゃんが“いかに気を使っているか”を知ると、もう……。子どもの目線に立った物語ですが、大人が観てこそ気づけることも、きっとあるはずです。終盤のネコVSネコのまさかの敵討ちバトル(!)も必見ですよ。
4:『セロ弾きのゴーシュ』(1982年)
宮沢賢治の童話を原作とした映画です。“音楽家の青年が動物たちと音楽を奏でていくハートフルな物語”……と思いきや(そうなのですが)、主人公の青年は次から次へとやってくる動物たちにかなり不遜で、わからずやだったりもします。「出て行け!」と突っぱねることは序の口で、礼儀正しくお願いされたとしても簡単には心を許そうとはしません。あまつさえセロ(チェロ)の演奏の腕前は芳しくなく、いつも楽長に叱られており、動物たちをイジめているのはほとんどその憂さ晴らしのよう。つまりは主人公が超イヤなやつということなのですが、彼がその動物たちと触れ合って“どのような心情の変化が訪れるか”ということこそが見所になっていました。
田舎の風景や、セロを弾く“指使い”が丁寧に描かれており、高畑勲監督のこだわりが強い所に感じられます。言葉をしゃべる動物たちがみんなかわいくて親しみやすいですし、何より美麗なクラシック音楽の数々は観る人の心をつかむはず。高畑勲監督は本作を「自立に向かって苦闘している中高生や青年たちに観て欲しい」と語っており、不遜な青年が学び、成長していく姿には若者こそが勇気づけられるでしょう。
5:『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999年)
ジブリ映画の中でも影は薄く、公開当時は興行的に振るわず、地上波で放送されたのは過去に1回のみと不遇な扱いを受けている作品であり、「存在は知っているけど観たことがない」という方も多いのではないでしょうか。ハッキリ言って、この映画を食わず嫌いするのはもったいない、端的に言ってめちゃくちゃに凄まじい傑作である、と断言します!
いしいひさいちによるマンガを原作としており、よく言えばシンプルで味わい深く、悪く言えば手抜きにも見えてしまうその絵柄を、本作では手抜きなどいっさいナシの“こだわり”で作られているということが大きな特徴です。“デジタル彩色でありながら水彩画”のような味わいを目指したため、1コマにつき通常の3倍のも作画を必要とし、その総作画枚数はスタジオジブリの前作『もののけ姫』の14万4千枚を超える17万枚にまでになりました。実験的な内容を手掛けるスタッフは幾度となく混乱に陥り、最終的に心身ともどもボロボロになっていったのだとか……。
「そこまでこだわってアニメ化する意味があるのか?」と問われそうなところですが、「ある」と断言します。“伸び”をするといった日常的な描写を妥協なく繊細に描いたことによって、「あのシンプルな線で描かれたキャラクターが生きている!」という実在感がありますし、時には驚くような奥行き感、躍動感のある画も登場し、グッと惹きつけられるのですから。何より、“ボブスレーから始まる結婚”のスピード感と、その後の“人生”を表したイマジネーション溢れる画は圧巻! 「こんなにシンプルな絵柄で、ここまでのスペクタクルを見せられるなんて」と、それだけで感動を呼ぶのです。終盤の暴走族との戦い(!)の時だけ“劇画調になる”のも良いアクセントになっていました。
物語は短いエピソードの連なりではありますが、それぞれが「適当にやっていてもどうにかなるさ」ということで一貫していることに気づくと、味わいが増すはずです。いい加減で間抜けでゆるゆるだけど、暖かく幸せな“家族の日常”を観続けると、高畑勲監督が本作で訴えたかった「もっと楽に生きてもいいんじゃないか」というメッセージがきっと伝わるはずです。
つまり、『ホーホケキョ となりの山田くん』は“楽に生きてももいいんじゃないか”というメッセージを“まったく楽をせずに”全力で作り切るという、矛盾しているようなコンセプトの作品なのです。何となくぼーっと観ていても楽しいですし、矢野顕子のボーカル入りの歌声も心地よく、ラストの“誰もが聞いたことのある楽曲”の歌詞もまた感動を呼びます。全体を通して観ると(短いエピソードの連なりにも関わらず)伏線が効いた見事な構成になっていることに気づけるはず。これほど独創的かつ実験的なアニメは、後にも先にも存在しないでしょう。その表現方法は遺作である『かぐや姫の物語』でも受け継がれており、またも後世に残る名作になっています。
※『かぐや姫の物語』はこちらの記事もご参考に↓
□追悼・高畑勲監督、最後の作品『かぐや姫の物語』は語り継がれるべき傑作だ
まとめ:高畑勲の作家性は、宮崎駿監督と正反対?
高畑勲監督の作品を振り返って観ると、一貫した“作家性”があることに気づきます。
その1つは、ファンタジーの要素はあくまで“味付け”程度で、日常にあるシビアで現実的な問題を描いていることが多いということ。宮崎駿監督がその多くでファンタジー世界を主軸とした物語を作り上げ、「子どもには現実からの逃げ場が必要である」と考えていることとは対照的です。ある意味では“容赦がない”とも言えますが、同時に“厳しい出来事から目をそらさない”という真摯さも感じられるようになっています。
事実、高畑勲監督は自身の作品について「観客を完全に作品世界に没入させるのではなく、少し引いたところから観客が人物や世界を見つめ、“我を忘れ”ないで、考えることができるようにしたつもりです」とも語っています。これも、圧倒的なイマジネーションで作られた映像に“没入させる”宮崎駿監督の作家性とは正反対ですね。
高畑勲監督のもう1つの作家性は、人間の“なんでもない日常の動作”を丁寧に表現することで、キャラクターの実在感をつくり出しているということです。高畑勲監督はアニメの「ああ、(現実の人間の動きも)こうなんだよなあ」と思うことができる動きに並々ならぬ情熱を注いでおり、その“絵が生きているように見える”というアニメという芸術の根本に立った作家性は、『この世界の片隅に』の片渕須直監督や、『バケモノの子』の細田守監督などの名だたるアニメ監督に影響を与えています。
また、映像研究家の叶精二氏は、高畑勲監督を“弁証法の作家”と分析しています。弁証法とは、1つの意見と、それと正反対の意見から、総合的な見識を得るという解釈の方法のことで、確かに高畑勲監督作品は2つの価値観を対照的に描写することがよくあります。『平成狸合戦ぽんぽこ』の人間と狸の争い、『おもひでぽろぽろ』の都会と田舎の暮らし、『火垂るの墓』の戦争という状況と兄のとった独善的な行動、『かぐや姫の物語』のかぐや姫と一方的に求婚をしてくる男たちといったように。それから導き出された結論はシビアで残酷と言えるものも多いのですが……だからでこそ、そのような厳しい現実で生きる人々にもエールを送っている、優しい作家とも言えるのです。
余談ですが、高畑勲監督は「『もののけ姫』を批判したい」という爆弾発言をしていたことがあります。『もののけ姫』の「生きろ。」というキャッチコピーに対して、『ホーホケキョ となりの山田くん』の「もっと楽に生きたらいいじゃん」というメッセージをぶつけていたようですし、「(宮崎駿監督の)ファンタジーは現実を生きるイメージトレーニングにならない」とも発言したこともあるそう。高畑勲監督は良い意味で“アンチ・宮崎駿”な作家でもあるのかもしれませんね。(高畑勲監督と宮崎駿監督のお2人はとても仲が良かったので、誤解のなきように!)
おまけ:『となりの山田くん』がなければ生まれていなかった名作があった!
『ホーホケキョ となりの山田くん』には、もう1つ逸話があります。知る人ぞ知る家族映画の名作『リトル・ミス・サンシャイン』を手掛けることになるマイケル・アーントという方は、自身が持ち込んだ脚本をどの会社にも買い取ってもらえず、もう脚本家をやめようと思っていた時に『となりの山田くん』と出会い多大な感銘を受け、初心に戻り家族を描いた脚本を書こうと一念発起したのだそうです。
そして出来上がった『リトル・ミス・サンシャイン』は絶大な支持を得て、アカデミー賞で脚本賞と助演男優賞を受賞しました。アーント氏はその実績が讃えられ、あの大傑作『トイ・ストーリー3』の脚本家に抜擢。さらには『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』の脚本家の1人として名を連ねることになります。つまり、『となりの山田くん』がなければ、『リトル・ミス・サンシャイン』はこの世に存在しなかった、さらには『トイ・ストーリー3』と『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』も別の内容になっていた(あるいは生まれなかった!)とも言えるのです。
『となりの山田くん』は前述したようにあまりに実験的な内容であり、莫大な製作費と製作期間に見合った興行成績を挙げることはできなかった、商業的には失敗と言える映画です。しかし、これまでもアニメという芸術そのものを作り変えてきた高畑勲監督が、(またしても)クリエイターを救い、間違いなく後年の名作に影響を与えていたという事実が確かにあったのです。
何より、『となりの山田くん』は今まで語ってきたように、現実的でシビアな作品も多く作ってきた高畑勲監督が、その現実で「もっと楽に生きたらいいよ」というこれ以上のない優しいメッセージを送っている作品です。その偉大なクリエイターの死を世界中の人々が悼んでいる今、もっとも観て欲しい作品は、やはり『となりの山田くん』なのです。
高畑勲監督の新作がもう観られないことが本当に残念です。ご冥福をお祈りいたします。
(文:ヒナタカ)
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