『もののけ姫』を奥深く読み解く「5つ」のポイント!子供が登場しない理由とは?<徹底解説・考察>
3:シシ神とコダマが示しているものとは?
シシ神は、人間はもちろん、もののけたちも敵いようがない、高次元の存在であるようでした。劇中でアシタカはシシ神のことを“命そのもの”であるとサンに告げていましたが、同時に“自然”のメタファーでもあると言ってもいいでしょう。美しい存在であり、命を与える一方で、無残にもその命を奪うこともあり、それを誰かがコントロールできるはずもない……終盤の“ドロドロ”が森にも人間たちにも無差別に襲い来る様は、そのまま津波や地震といった自然災害そのものにも思えてきます。
前述したように、『もののけ姫』では“(争いや問題は)簡単に解決できない”ことが示されており、それは“自然(環境)破壊”にも及んでくるのでしょう。事実、宮崎駿監督は『もののけ姫』において“素晴らしい自然と愚かな人間という単純な関係図”で捉えることを否定しかったところもあるようです。
しかも、最後にシシ神に首を返すと山々には緑が戻りましたが、サンは「蘇ってもここはもうシシ神の森じゃない」というネガティブな物言いをしています。これも宮崎駿監督によると、「ヨーロッパの産業革命で森が一旦は無くなっていたり、日本でも鉄を作るためにたくさんの木を切ったりもしていたが、それでも森は蘇っていた。しかし以前の生命に富んだ豊かな森とは違っていた……」という文明の歴史を踏まえたものになっていたのだそうです。
宮崎駿監督は『風の谷のナウシカ』で自然破壊がされた未来で生きる人々の姿を描き、『天空の城ラピュタ』ではわかりやすい勧善懲悪の冒険活劇を描いていました。しかしながら、『もののけ姫』ではそのどちらをも単純化して描いていないのです。それは、宮崎駿監督が作家として成熟した、または『風の谷のナウシカ』の頃に回帰した結果とも言えるのではないでしょうか。
また、宮崎駿監督は“コダマ”について、「森がただの植物の集まりではなくて、森が精神的な意味も持っていた頃のイメージをどういうふうに形にしていけばいいかを考えた」「森の不思議な感じや気配のようなものを形にしたかった」などとも語っています。コダマは森や自然に“何かがいる”という漠然とした感覚を具現化したものと言ってもいいでしょう。そのコダマの存在を最後に示すラストは、(森が以前の森ではなかったとしても)やはり究極的には自然を敬い、自然を甦らせることができるという希望を持つ、宮崎駿監督の信条が表れているようにも思えるのです。
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