俳優・映画人コラム

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2020年05月09日

猛龍生誕80周年 ブルース・リー4Kリマスター復活祭2020

猛龍生誕80周年 ブルース・リー4Kリマスター復活祭2020



武闘家として
映画スターとして


ゴールデンハーベスト社は香港の大手映画会社ショウブラザーズから独立したレイモンド・チョウが1970年にレナード・ホーや映画スターのジミー・ウォングらとともに設立した映画会社ですが、チョウは当時のハリウッドにおけるブルース・リーの活躍に着目し、2本の映画出演契約を取り付けました。

ブルース・リーも心機一転、香港に帰国し、まずは1971年に初主演映画『ドラゴン危機一発』を発表。


(C)Fortune Star Media Limited. All Rights Reserved. 




今までの香港武闘映画の域をはるかに超えたすさまじいアクションの数々に、香港の映画観客は大いに興奮するとともに歴代興行記録を塗りかえる大ヒットとなり、ブルース・リーは一躍スターダムにのしあがります。

続けて1972年『ドラゴン怒りの鉄拳』に主演し、ここで初めてヌンチャクと、おなじみの怪鳥音を発します。
(ちなみにこの怪鳥音、「アチョー!」とモノマネされることが多々ありますが、ブルース・リーをこよなく愛する俳優&監督&歌手&コメディアン&その他もろもろの才人・竹中直人は「アタッ!」が正解だと指摘しています。よくよく聞き直すと、本当にその通りです)。



(C)Fortune Star Media Limited. All Rights Reserved. 




3作目の『ドラゴンへの道』(72)では自ら映画制作会社コンコルド・プロダクションを設立し、自らの製作・監督・脚本・主演、そしてイタリアのローマ・ロケでアメリカの武術家チャック・ノリスを招いての、武闘映画史上に残るクライマックスのコロシアムでの死闘を繰り広げていきます。
(この作品でチャック・ノリスも大いに注目され、後にシルベスター・スタローンやアーノルド・シュワルツェネッガーなどと並ぶ1980年代ハリウッド・アクション・スターとして君臨)



(C)Fortune Star Media Limited. All Rights Reserved. 



ところで『ドラゴン危機一発』はタイ、『ドラゴン怒りの鉄拳』は日本占領下時代の上海、そして『ドラゴンへの道』のイタリア・ローマと、見る者に海外を意識させる舞台設定がなされていることに、偶然か必然かはともかく、当時のブルース・リーの国際感覚および海外に負けたくないという意地みたいなものも、どことなく感じられてなりません。

そんなブルース・リーは映画スターとして、そして武術家としてのさらなる飛躍の融合を試みるべく、『死亡遊戯』の監督・主演に臨み、クライマックス・シーンを先に撮り始めていきます。

しかし、同時期にゴールデンハーベストとハリウッドのワーナーブラザースの共同製作による香米合作映画『燃えよドラゴン』の企画が立ち上がり、リーは『死亡遊戯』の撮影を中断し、1973年1月より同作の撮影に臨みます。

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ようやくアメリカ映画界に主演スターとして乗り込むことに成功した彼は、脚本はもちろん現場でも様々なアイデアを出し、エキストラの武術指導にも怠りはありませんでした。

なお、このとき参加していたのが、若き日のサモ・ハン・キンポーやジャッキー・チェンなどです。

ところが『燃えよドラゴン』の撮影が終わってまもなく、1973年7月20日、ブルース・リーは32歳にして脳浮腫で突然の死を迎えてしまいます。

そして主演スター死去から数日後の7月26日に香港で、8月17日にアメリカで、そして12月22日に日本で、それぞれ『燃えよドラゴン』は公開され、世界中に衝撃をもたらしました。

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