『劇場版 呪術廻戦 0』エヴァのシンジくんが転生して可愛い女の子と相思相愛になる夢小説として観た感想
2:「大切な人の生き死にが歪められたこと」も相反するようで似ているかもしれない
『呪術廻戦』と『エヴァンゲリオン』には、他にも相対するようで似ていることがある。それは、「大切な人の生き死にが歪められたこと」についての価値観だ。
『エヴァンゲリオン』シリーズにおいて、碇ゲンドウは妻のユイの死をきっかけに狂気に飲み込まれ、組織ゼーレのシナリオ下で「人類補完計画」を遂行しようとしていた。その理由のひとつは「死んだはずのユイにまた会いたい」であり、それは人類全員を巻き込むエゴイズムに満ち満ちている行為でもあった。
対して『劇場版 呪術廻戦 0』の乙骨憂太は、「僕は呪術高専で里香ちゃんの呪いを解きます」と信念を持って宣言する。それは、「里香ちゃんが僕に呪いをかけたんじゃなくて、僕が里香ちゃんに呪いをかけたのかもしれません」と自分に責任があると考えためでもあった。何より、乙骨憂太は碇ゲンドウとは真逆で「死んだ大切な人とこの世でずっといられる」ことを、(呪いという)歪んだものをもって達成されることを望んでいないのだ。
テレビアニメ「呪術廻戦」第1話 ©芥見下々/集英社・呪術廻戦製作委員会
また、原作「呪術廻戦」の1巻でも、そちらの主人公の虎杖悠仁は、愛する祖父については「正しく死ねたと思う」と考え、目の前でオカ研の先輩2人を殺そうとする呪いについては「こっちは間違った死だ!」と思っていた。つまり、『呪術廻戦』は、大切な人の生き死にが(呪いによって)理不尽に歪められることへの憤りが確実に込められている作品でもある。
『エヴァンゲリオン』シリーズにおける碇シンジは、前述した通り綾波レイを優先しすぎるあまり、父のゲンドウと同じ轍を踏みかねない危うさもあった。『劇場版 呪術廻戦 0』の乙骨憂太もまた同様に祈本里香を最優先に考えていたが、彼は最終決戦でどのようなことを里香に頼んだだろうか。里香はその後にどのような諫言を憂太にしただろうか。2人の価値観は、つまるところは憂太が「失礼だな」に続けて言う、ある2文字の言葉に集約される。
目の前の敵の夏油傑は、その前に「自己中心的だね、だが自己肯定か」と自身への殺意を口にする乙骨憂太のことを評しており、それもまた正しい分析ではあるだろう。五条先生が序盤に口にしていた「愛ほど歪んだ呪いはないよ」という持論にも大いに納得できる。
だが、最終的には、大切な人への大いなる愛情、その危うさを描きつつも、それを純粋なものとして肯定してみせる『呪術廻戦』という作品の精神性が、死んだ大切な人との間違った再会を願う様を描いた『エヴァンゲリオン』シリーズと地続きで考えることで、より素晴らしいと思えたのだ。碇シンジが到達した結論とはまた違う「答え」を、乙骨憂太が体現してくれたように思えたことも、また嬉しい。
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