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2022年01月17日

『鬼滅の刃 無限列車編』誰も語らない「猗窩座」の魅力

『鬼滅の刃 無限列車編』誰も語らない「猗窩座」の魅力



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どうして、手からビームが出ないんだろう。
どうして、空を飛べないんだろう。
どうして、巨大化できないんだろう。

筆者は幼少の頃から、そんなことをずっと考えていた。

答えは猗窩座が教えてくれる。「老いるからだ。死ぬからだ」
鍛錬を続ければ、人間もビームを出せるはずだ。

ただ、人間の寿命はあまりに短く、全力で鍛錬できる期間はさらに短い。ビームを出す前に死んでしまう。もし人間の寿命が無限にあり、毎日毎日鍛錬を続けたら、200年目ぐらいでビームが出るはずだ。空も飛べるはずだ。巨大化もできるはずだ。

猗窩座の「素晴らしい提案」に、なぜ煉獄さんは乗らないのか。

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なぜ猗窩座は煉獄さんを鬼に誘うのか



『鬼滅の刃 無限列車編』。今さら詳しく説明するまでもない名作である。筆者は初めて映画館で観た時、ボロ泣きした。アラフィフのおっさんが声を上げて泣いた。嫁は引いていた。
先日まで放送されていたテレビ版を観て、また泣いた。原作を読み返して、またまた泣いた。
テレビやラジオから「炎」が流れてくると、もうイントロで泣いてしまう。

どうしてこんなに泣いてしまうのか。煉獄さんの壮絶な最期に、感極まってしまったのか。もちろんそれもあるのだが、それだけではない。どうやら筆者は、猗窩座に感情移入して泣いているようだ。

猗窩座は友達が欲しい。だから、友達になれそうな人間を鬼に勧誘する。しかし、煉獄さんは(食い気味で)「ならない」と断る。即断即決で話を終わらせる傾向のある煉獄さん。ポーズでいいから、悩む素振りぐらい見せてあげて欲しい。顔では平静を装っている猗窩座だが、深く傷ついたはずだ。

筆者にはわかる。筆者は、「空道」という武道の指導員をしている。格闘技経験者や格闘技好きそうな人や格闘技向きな人を見ると、とりあえず勧誘する。「お前も空道家にならないか?」と。
別に、ひとり道場生を増やすたびに僕にマージンが入るわけではない。筆者は、友達が欲しいのだ。いや、憐れまないでほしい。友達ぐらいいる。多くはないが。

「友達」を「稽古仲間」と言い換えてみると、よりわかりやすいのではないか。稽古仲間、大事である。特に、「自分と同じぐらいの力量」の稽古仲間。これが必要である。
自分より遥かに強い稽古仲間。これは辛い。いつもやられてばかりで楽しくない。卑屈になる。よろしくない。
自分より遥かに弱い稽古仲間。いつも勝てるから最初は優越感を持てるが、そのうち虚しくなる。人格が歪む。よろしくない。やはり、「自分と同じぐらい」であることが肝要だ。

煉獄さんに対し、「俺と永遠に戦い続けよう」と叫ぶ猗窩座。「自分と同じぐらい」と認めている証拠だ。

空道という武道は、頭突きやヒジを含む打撃・投げ・寝技すべて認められた総合武道である。だから、ボクサーには「パンチだけやなくて蹴ったり投げたり頭突きしてもいいんやで」とか、柔道家には「掴んで頭突き入れてから投げてもいいんやで」とか、魅惑的な文言を並べて勧誘する。
「えっ、頭突き入れてもいいんですか!? 空道やります! すぐやります! さっさと道場に連れて行けコンチクショー!」となることを期待するが、まだ一度もそうなったことはない。

困惑気味に「いや、別にそこまで頭突きしたくないし……。」と断られるのがいつものパターンである。頭突き楽しいのに。大体微妙な空気になり、その後もなんか気まずくなり、筆者は黒霧を呑んで泣きながら寝るのである。

「同じく武の道を極める者として理解しかねる」。猗窩座ならわかってくれるはずだ。
(※余談だが頭突きの有用性は、他ならぬ本作の主人公・竈門炭治郎が随所で証明してくれている)

しかしながら、さすが猗窩座は上弦の鬼である。何度煉獄さんに断られようとも、粘り強く勧誘し続ける。初対面なのに「杏寿郎」と下の名でフレンドリーに呼びかけるも、「初対面だが、俺はすでに君のことが嫌いだ」とバッサリやられる。煉獄さんは大正時代の人なので、まだ”オブラート”という物を知らない。筆者なら、泣きながら帰宅して即黒霧である。

その後の猗窩座の返答も「俺も弱い人間が大嫌いだ」なので、そもそも話が嚙み合っておらず、そこがまた猗窩座の悲しさでもある。

なぜ猗窩座は強さに執着するのか



猗窩座の鬼への勧誘は、人間アスリート界に例えれば「ドーピングへの誘い」に似ている。
「この薬を打てば、筋力・瞬発力・動体視力が3倍になります。おまけにアドレナリンも3倍分泌されるので、痛みは3分の1になります。その代わり、寿命も3分の1になります」

プロのアスリートなら、きっと「やらない」と言えるのだろう。だが自分に置き換えてみたときに、煉獄さんのように食い気味に「やらない」と言えるだろうか。
その迷いこそが人間の弱さだろうし、煉獄さんの強さが鮮明に出ている部分でもある。

猗窩座は「今この戦いに勝てるのなら、明日死んでも構わない」というタイプに近いと思う。猗窩座にとっての最優先事項は、強さである。強さを得るためなら、他のあらゆることを犠牲にするのも当然だと思っている。

なぜ猗窩座がここまで強さに執着するのか。それは人間時代の猗窩座の悲しい過去に由来するのだが、アニメではまだ描かれていないため明言は避ける。

ただひとつだけ。この『無限列車編』のエンディングに使われた名曲「炎」の一節。

「強くなりたいと願い 泣いた 決意を餞に」

これは、猗窩座のための詩でもある。

なぜ煉獄さんは強さに執着しないのか



一方で、煉獄さんは「ドーピングの誘い」には一切乗らない。
煉獄さんをアスリートに例えた場合に、「清廉潔白な選手であるから」というわけではない。

「老いることも死ぬことも、人間という儚い生き物の美しさだ」
「強さというものは、肉体に対してのみ使う言葉ではない」

おそらく煉獄さんは、そこまで肉体的な強さに執着はしていない。煉獄さんの強さへのモチベーションは、「鬼舞辻無惨を倒す」という一点のみである。
無惨を倒し、鬼のいない平和な世になったのなら、もう自分は老いて弱くなっても構わないのだ。
猗窩座と話が嚙み合うわけがない。

話が嚙み合わないながらも、煉獄さんにどうしても友達になってほしい猗窩座。
破壊殺・滅式での攻撃で煉獄さんに致命傷を負わせた際、叫ぶ。

「死ぬ…!! 死んでしまうぞ杏寿郎。鬼になれ!! 鬼になると言え!!」

もはや勧誘ではなく、哀願である。
上弦の鬼と柱が出会ったのだ。戦わないわけにはいかない。しかし、この”至高の領域に近い”男を殺したくはない。出来れば友達になりたい。友達になって、毎日一緒に稽古して、稽古後の美味いメシ(人間)を食いたい。だがどうやら、俺の方が強いようだ。このままだと殺してしまうだろう。でも俺は手加減というものが出来ない。だから早く鬼になると言え!! 死んでしまう前に!!

煉獄さんは、鬼にはならなかった。200人の乗客も、仲間も、誰ひとり死なせることなく、名誉の戦死を遂げた。この悲しみを乗り越えて、炭治郎たちはさらに強くなっていく……。
この猗窩座と煉獄さんの戦いを、ただ傍観することしか出来なかった炭治郎たち。しかし今放送中の「遊郭編」では、上弦の鬼に堂々と戦いを挑んでいるのだ。あの、どう足搔いても勝てないと思っていた上弦の鬼に。

昔のジャンプ漫画なら、煉獄さんは後に生き返り、猗窩座は正義に目覚め、やがてふたりは強力なバディとなるだろう。

しかしこの作品では、死んだ者が生き返りはしない。悪が正義に目覚めたりもしない。
そのシビアさゆえに、各キャラクターの悲しみはより深くなり、その魅力もより際立つのだ。

(文:ハシマトシヒロ)

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(C)吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable

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