【A24】『アフター・ヤン』タイトルに込められた“本当の意味”とは?
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『ムーンライト』(2017年)『ミッドサマー』(2020年)『LAMB/ラム』(2022年)
いま、最もエッジーな作品を世に送り続けている映画スタジオ「A24」。その最新作『アフター・ヤン』が、10月21日(金)から公開中だ。
舞台は、一般家庭にアンドロイドが普及した近未来。茶葉の販売店を営むジェイク(コリン・ファレル)は、妻のカイラ(ジョディ・ターナー=スミス)と娘のミカ(マレア・エマ・チャンドラウィジャヤ)、そしてアンドロイドのヤン(ジャスティン・H・ミン)と慎ましくも幸せな日々を送っている。しかしヤンが突然の故障で動かなくなってしまい、修理に奔走するジェイク。そしてひょんなことから、ヤンには1日に数秒間だけ動画を貯めておくことができるメモリバンクがあることを知る……。
本作の監督を務めているのは、在米韓国人のコゴナダ。何とも変わった名前だが、本名ではない。『お茶漬の味』(1952年)『東京物語』(1953年)『秋刀魚の味』(1962年)など、数々の小津安二郎作品でシナリオを書いてきた脚本家、野田高梧(のだ・こうご)に由来したペンネームだ。
全体を包み込む東洋的イメージは明らかに中国に由来しているが、重要なシーンで岩井俊二監督の『リリイ・シュシュのすべて』(2001年)の挿入歌「グライド」を引用していたりと、日本への目配せもアリ。ビデオ通話における登場人物の切り返しショットは、まさに小津安二郎を思わせる。
コゴナダ監督自身、本作をSFというよりは家族のドラマと明言しており、尊敬する小津安二郎のフィルモグラフィーと通底する。だが筆者は、本作を単なる家族ドラマだとは考えていない。
現代にはびこる差別問題を扱った、骨太な社会派映画と思っている。
その理由を以下に述べよう。
“自分を自分たらしめるもの”とは何か?
筆者が『アフター・ヤン』を観て感じたのが、SF映画の金字塔『ブレードランナー』(1982年)との共通性。どちらも、“記憶”が重要なモチーフとして使われている。
『ブレードランナー』ヒロインのレイチェル(ショーン・ヤング)は、社長の姪の記憶を移植されたレプリカント(アンドロイド)。その真実を知らされた彼女は、「自分が人間ではない」ことに激しく動揺する。そして後に製作されたディレクターズ・カット版では、主人公のデッカード(ハリソン・フォード)もまた、レプリカントであることを示唆するようなシーン(ユニコーンの夢)が挿入されている。
人間と人間ではないものを隔てるものとは何なのか。そもそも人間とは何なのか?そんな根源的な問いを『ブレードランナー』は観る者に突きつける。“自分を自分たらしめるもの”とは、国籍でも、年齢でも、性別でも、信仰する宗教でもなく、記憶なのではないか、と。
『アフター・ヤン』では、そんな哲学的な問いともう一つ、極めて現代的なテーマを内包しているように思う。人種差別問題だ。それも、市井の人々が無意識に抱いている差別意識である。
キャサリン・ヘプバーンが主演女優賞に輝いた名作『招かれざる客』(1967年)では、実娘と黒人青年との結婚を巡り、世間的にはリベラルと思われている白人夫婦の葛藤が描かれていた。
アフリカ系の妻を持ち、中国系の娘を養子として迎え入れたジェイクもまた、多様性を尊重するリベラリストのように振る舞いつつも、隣家ジョージの娘たちがクローン人間であることにあからさまな嫌悪感を示している(おそらく設定として、この世界は少子化の危機に瀕しているのだろう)。そして、クローン人間のエイダとジェイクはこんな会話を交わす。
「人間になりたいと思ったことはないのか?」
「いかにも人間らしい発想ね」
白人至上主義にとらわれたレイシストのように、ジェイクも人間至上主義にとらわれている。だがヤンのメモリーバンクを探索していくうちに、彼の中に「人を愛する」感情があることを知り、次第に人間とアンドロイド(&クローン人間)の区別が曖昧になっていく。自分とヤン、自分とエイダを分け隔てるものは、何もないことに気づかされるのだ。
ヤンが「1日に数秒しかメモリを保存できない」という設定も、実はとってもヒューマニティに溢れている。我々人間も、記憶を無限に貯蔵するのではなく、恣意的に“在りし日の思い出”を抽出し、それを糧に生きているのだから。
陰陽思想に基づく『アフター・ヤン』の解釈
タイトルの『アフター・ヤン』とは、何を指し示しているのだろうか。単純に考えれば、アンドロイドのヤンが故障してしまった“後”、ジェイク一家にヤンという存在がいなくなってしまった“後”の物語、と解釈できる。ジェイクがヤンの故障をきっかけにして、人間至上主義から解放された“後”、という解釈もあり得るだろう。
いやひょっとしたら、“ヤン”というワード自体が何かの象徴なのではないか?ヤンは、漢字では「陽」と書く。森羅万象、全ての事物は「陰」と「陽」から成っているという考え方は、中国の陰陽思想に基づくもの。実は『アフター・ヤン』とは、この思想における「陽」の“後”ということではないだろうか。
「陽」は自然界における男性的な活動原理、「陰」は女性的な活動原理とされている。この二つが結合することで、ありとあらゆる事物が生み出されるのだ。だとするならば、『アフター・ヤン』とは男性的なるものの終焉であり、性差別のない世界の幕開けを高らかに告げるものではないか。昨今のMe Too運動とも連動したメッセージとも受け取れるのだ。
ジェイクの妻カイラが、経済面でも仕事面でも独立した女性として描かれていることは非常に象徴的。そう考えると、ヤンが「毛虫にとっては終わりだが、蝶にとっては始まりだ」と老子の言葉を引用する本当の意味が、はっきりと見えてくる。
かなり飛躍した推論であることは、重々承知である。でも、もしこの解釈があり得るのだとしたら、本作は「人種差別問題」と「性差別問題」を、SFという意匠を借りて暗喩的に描いた作品と言える。それはそれで非常に画期的なことではないか、と筆者は勝手に考えている次第なのだ。
(文:竹島ルイ)
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