『ノートルダムの鐘』注目してほしい重要な「3つ」のポイント
2023年11月24日(金)に『ノートルダムの鐘』が、金曜ロードショーのリクエスト企画により選ばれた、4週連続のディズニーアニメ映画の第2弾として放送される。
本作は『レ・ミゼラブル』でも知られるヴィクトル・ユーゴーの小説のアニメ映画化作品にしてミュージカル。躍動感あふれる表現や、アラン・メンケンによる耳に残る荘厳な楽曲、1996年の公開当時に劇団四季で活躍していた声優が集結した吹き替えなど、その魅力は枚挙にいとまがない。
昨今でも問題になる差別や迫害、はたまたルッキズムの問題を描いており、冒頭の(字幕版での)「誰がモンスターで、誰が心ある人間か」という問いかけは誰にとっても他人事ではない。何を描こうとしていた映画であるかを、そしてキャラクターの特徴と魅力を、ネタバレ込みで語っていこう。
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※これよりアニメ映画『ノートルダムの鐘』のラストを含むネタバレに触れています
1:集団心理の恐ろしさと、自分以外の誰かが救われること願うエスメラルダ
物語の舞台は15世紀末のパリ。 街の中心に存在するノートルダム大聖堂の鐘楼に住んでいる、容姿は醜いが優しく純粋な心を持つ鐘つきのカジモドは、外に出ることを許されていなかった。だが、彼は「道化の祭り」に参加し、そこで美しい踊り子・エスメラルダと出会ったことで、運命が大きく変わっていく。背景で重要なのは、ジプシー(ロマ)への迫害と差別がはっきりと描かれていること。最高裁判事のフロローはパリ市内のジプシーたちを根絶やしにすることを画策しており、そのことを「正義」だと信じこんでいる。実際の当時のジプシーもユダヤ人と同様に迫害の対象となり、多くの者が虐殺されていた。現在でもロマへの偏見は根強く、彼らは教育や就職面で差別的され、貧困から抜け出せない例も少なくないそうだ。
そして、カジモドは道化の祭りにおける「トプシー・ターヴィー」という「逆さま」「めちゃくちゃ」の意味を持つ言葉にならうかのように、「もっとも醜い者」のコンテストで優勝するのだが……兵士からトマトを投げつけられことをきっかけに、その後は市民からもあざけ笑われ、縄で締め付けられ、ものを次々に投げつけられる、ひどいいじめを受ける。
道化の祭りは、何をしても許される、ストレスを大発散できる祭りだった。今日だけは「無礼講」であったことが、「あいつならいじめてもいいんだ」という集団心理を加速してしまったのではないか。
その中には、普段は虐げられていたり差別を受けていた者、それこそジプシーだっていたかもしれない、とも思えてしまうことが辛い。少し前にはみんなから祭り上げられていたのに、「流れ」が変わると一気にリンチに移行するのも恐ろしい。これらは、SNSでの過剰なバッシングや誹謗中傷が問題になる現代でも、身につまされる問題だろう。
その最中でも、ジプシーの踊り子であったエスメラルダだけはカジモドをかばい、彼を助けることを認めようとしなかったフロローへ「この子も私たちジプシーと同じ目に遭わせるのね」「正義だなんて言って、本当に助けが必要な人には冷たいことね」「道化ってのは、あんたのことよ!」と痛烈な批判をする。
そして、エスメラルダは大聖堂で「私はひとりでも大丈夫」「踏みにじられた人たちも、みな神の子」などと、自分以外の不幸である人たちを救ってほしいと歌い、祈りを神へと届けようとしていた。
この『ノートルダムの鐘』の物語は、観る者に「エスメラルダのように、差別や迫害を受ける側にいながら、同じように差別と迫害を受ける者を想い、助けてあげることができるだろうか」と考えさせてくれる。フロローのような明確な差別主義者でなかったとしても、いじめられるカジモドを見ても何もできずにいたり、それこそリンチをする側に回ってしまう可能性は、誰にでもあると思うのだ。
2:何から何まで対照的なフロローとカジモドの考えと行動
迫害をされる立場でも他の誰かの幸せを願っていたエスメラルダと、独善的な行動ばかりをしていたフロローは対照的な存在だ。さらに、フロローとカジモドも、劇中のほとんどで対照的な考えのもとで行動していることにも注目してほしい。例えば、ジプシーを迫害し続けていたフロローは、そのジプシーであるエスメラルダに恋心を抱いていることに気づき、その矛盾は狂気へと飲み込まれていく。「彼女を見ただけで、地獄の炎がこの身を焼きつくす」とさえ表現する彼は、エスメラルダを手にいられないなら、いっそのこと彼女を焼き殺すこと、文字通りに火あぶりにする「魔女裁判」にかけることもいとわなかった。
このフロローのおぞましい思考は、後に3人組の石像がカジモドへ「パリは恋に燃えている」「君を求めて燃えている」などと歌ったことと対照的だ。燃え上がるような「恋の炎」はポジティブな意味にもなるはずなのに、なまじ差別主義者であるフロローは「自分を焼き尽くす」もしくは「恋の相手をいっそのこと焼き殺す」という考えに至っているだから。
そして、フロローはこれまで信仰していた神がいる大聖堂でも容赦なく攻撃をしかけ、カジモドの手を掴んでいたエスメラルダを斬りつけようとするものの、掴んでいた石像が咆哮する様を見て、崩れ去るその像と共に炎の中へと落下する。恐れていた「神の怒り」を知り、狂気の中で歌っていた炎の中に身を落とすという、これ以上のない因果応報な結末を迎えたのだ。
フロローが死の間際に見た石像の怒りが、幻だったのか、それとも本物だったのかはわからない。ただ、これもまたカジモドが3人の石像と友達だったこととは対照的だ(彼は鐘のひとつひとつにも名前をつけていて、エスメラルダに紹介していた)。
その3人の石像は兵士たちへ攻撃を仕掛けたこともあったし、おばあさんのラヴァーンがラストでまとわりつくハトへ文句を言ったこともあったが、それ以外では3人の石像がカジモド以外の誰かと会話をする場面はない。
フロローがやってきたりすると急にただの石像となる様からして、3人の石像はカジモドのイマジナリーフレンド(想像上の友達)であるとも解釈できる。このことを踏まえれば、フロローが死の間際に見た石像の怒りもやはり想像上のものであり、自身の狂気と恐れのためにフロローは身を滅ぼしたのだと、より思えるだろう。
そのカジモドは、エスメラルダが護衛隊長のフィーバスと両思いになり、キスまでしたことを見て失恋する。それでも、カジモドはフィーバスを匿い、共に戦う相棒、いや親友になっていく。
そして、カジモドは最後に子どもに抱きしめられ、そして市民に心から受け入れられる。これもまた、一方的な恋心のためにエスメラルダのみならずジプシーたちを傷つけたフロローとは正反対だ。
ちなみに、このディズニーアニメ映画版『ノートルダムの鐘』と原作小説では、キャラクターの印象がかなり異なる。フィーバスは婚約者がいながらもエスメラルダにも手を伸ばす女癖の悪い人物だったりするし、エスメラルダがカジモドのあまりに醜い容姿に目を背けてしまうという場面があるし、フロローは倒すべき悪役というよりも真面目で厳粛な(だからこそやはりエスメラルダの恋心のために懊悩する)印象がある。
何より原作小説のラストは悲劇性の強いものであり、1956年製作のフランスの実写映画版の結末もそれに近い。今回のディズニー映画版でも、エスメラルダとフィーバスが、死の間際のカジモドが最後に鐘を鳴らすことを手伝い、涙を流すという結末が検討されたこともあったという。
そんな風に、キャラクターの善悪がより明瞭になり、さらにハッピーエンドへと作り替えるという、思い切りの良いアレンジが施されているのだが、これまで挙げてきたカジモドとフロローの対比をみれば、感情移入しやすく、より差別や偏見の問題をスレートに感じられる、極めて計算し尽くされた作劇がなされていることがわかるはずだ。
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