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<考察>『落下の解剖学』真実はいつも「ひとつ」——ではない?!

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「真実はいつもひとつ」

誰しもが聞いたことのあるこのフレーズ。果たしてそうなのだろうか?

とある事件が、我々の常識に疑いの目を向ける。曇りひとつない絶景が広がる雪山。とある一軒家のそばで男性が亡くなる。発見したのは視覚障がいを抱える息子と愛犬。家族が哀しみに暮れる中、調査が始まるのだが妻の言動が怪しい。

彼は事故で死んだのか、それとも自殺なのか、ひょっとして妻が殺害したのだろうか?法廷で白熱した論戦が勃発する。



2月23日(金)より公開の『落下の解剖学』は、「真実」の本質をあらゆる角度から検証していく作品だ。傍観者である観客も、映画を追っていくうちに先入観に囚われていたことに気付かされてハッとさせられることだろう。

カンヌ国際映画祭にて最高賞にあたるパルム・ドールを受賞したほか、フランスの老舗雑誌カイエ・デュ・シネマが、2023年のベスト映画に本作を選出するなど高い評価を受けている。

今回は、我々が盲信してしまう「真実」といった普遍的なテーマを扱った『落下の解剖学』について考察していく。

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※本記事は『落下の解剖学』のネタバレに触れています。未鑑賞の方はご注意ください。

真実はいつも「無数」

◾️サンドラの主張に対し弁護士が「そこは重要じゃない」と語った理由とは?


雪山で発生した死亡事故。現場検証が行われる過程で、妻・サンドラ(ザンドラ・ヒュラー)に対する疑惑が浮上する。

「待って、私は殺していない」

と証言する彼女。しかし、担当弁護士であるヴィンセント(スワン・アルロー)は次のように語る。

「そこは重要じゃない」

どういうことなのだろうか?


ヴィンセントの発言は『落下の解剖学』のテーマを象徴している。事象が発生した際に、多角的なアプローチで検証し、論理的・統計的に「もっともらしい」ものを真実とする立場を彼は取っている。事象には、さまざまな事実が含まれている。事実を組み立てていくことで真実が浮かび上がる。しかし、個々にとって集積される事実は異なる。

実際にサンドラと息子・ダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)とでは見えている景色が違う。ダニエルが弱視を患っており、視覚以外の情報から事象を捉えていることからも明白だ。それに対し社会、特に法廷では事象発生のプロセスを明確にする必要がある。

つまり真実は無数にあるが、その中からひとつ選ばなくてはならないのである。だからこそ、サンドラが殺人をしたかどうかが重要なのではなく、検証結果や証言を論理的にまとめ「もっともらしい」過程を真実とすることが重要なのである。

◾️全員が「不足した事実」を抱えている中で


本作が面白いところは、ヴィンセントの発言を踏まえて法廷を神聖化してしまうことを回避したところにある。

法廷では、検事(アントワーヌ・レナルツ)がサンドラやダニエルに質問をする。論理的におかしな部分があれば、再度問い直すこととなるのだが、段々と検事はヒートアップしていく。観客は、検事が自分の真実にサンドラたちを押し込めようとする状況に、嫌悪感を抱き同情を抱くようになっていくだろう。

その際、弱視の少年・ダニエルへ同情の眼差しを向けたくなるのだが、障がい者=同情すべき存在といったクリシェを破壊していく。

彼は父の死を屋外から発見したと語る。なぜ自分が屋外にいたと断言できるのかと問われた際に、目印となるテープの感触を証拠として挙げる。しかし裁判の中で突然、自分は事件当時、屋内にいたと正反対の証言を行うのである。映画内での行間もあり、サンドラの指示によって証言を変えたような疑惑が浮上し、ダニエルへの不信感が強まる。


またサンドラは、ドイツ語を母語としている。しかし、法廷の場ではフランス語を使うことが強いられる。翻訳によって正確に物事を伝えることは難しい。彼女は不慣れなフランス語で細かいニュアンスを伝えられず、検事(アントワーヌ・レナルツ)の思い描く真実に丸め込まれそうになりながらも自分が信じる真実を主張することとなる。

  • 検事:実際の事件(証言や検証結果を組み立てて事象を再構成している)
  • ダニエル:視覚情報
  • サンドラ:言語情報(翻訳を通じて抜け落ちてしまう情報)

このように、上記が抜け落ちてしまっているにもかかわらず、自分の信じる真実を正として断言し、それにより法廷が混乱していく様子が描かれているのである。

◾️誰しもが陥ってしまう錯覚


『落下の解剖学』が国際的に評価されている背景には、SNSをはじめとした多くの場で限定的な情報しか与えられていないにもかかわらず唯一の真実として断言し、時に他者へ攻撃を行われていることにあるだろう。

本作は、誰しもが陥ってしまう感覚を映画内における錯覚を通じて認知させる役割を担っているといえる。


観客は検事とは違い、当事者の行動を目の当たりにしている。インタビュー中にワインを飲み、夫が大音量で流す曲を止めず不気味な笑みを浮かべるサンドラ。彼女が殺したのではないかと思いながら映画を追っていく。現場検証、CGによる再現、インタビュアーの証言の確からしさもあり、サンドラによる殺人説への確信が強まっていく。


しかし、ダニエルが愛犬に薬を投与している場面で真実が揺らぐ。なぜならば、完全なる盲目ではなく弱視であることが明確となり、これまでのやり取りを再考せざる得なくなるからだ。

最終的に、サンドラが無罪である判決が下るが、果たして本当の真実はなんだったのかを観客に委ねる形で映画は終わる。いくらでも提示された事実を基に真実を構築することはできるが、どこまでいっても観客の憶測の域を出ない迷宮となっており、無数の真実の前で煙に巻かれることとなるのだ

この宙吊りの感覚こそが、我々の無意識なる行動に警鐘を鳴らしているのである。

ジュスティーヌ・トリエ監督の作風について

『落下の解剖学』を手がけたジュスティーヌ・トリエとはどういった監督なのだろうか?彼女はこれまでに3本の長編作品を発表してきたが、日本では配信スルーもしくは特集上映といった限られた場でしか紹介されてこなかった。

『落下の解剖学』は彼女の集大成ともいえる映画であり、過去作を踏まえることで新しい発見をもたらす。

そこで、本記事では『ソルフェリーノの戦い』『ヴィクトリア』『愛欲のセラピー』を取り上げ、ジュスティーヌ・トリエ監督のスタイルを捉えていく。

◾️『ソルフェリーノの戦い』(2013)



彼女は『ソルフェリーノの戦い』で輝かしい長編デビューを飾る。インディペンデント映画普及協会が主催するカンヌ国際映画祭ACID部門に選出され、フランス最大の映画の祭典であるセザール賞最優秀長編映画賞にノミネートされた。さらに、カイエ・デュ・シネマ2013年の映画ベストにも選ばれた。

本作は、テレビレポーターであるレティシアの家に元夫であるヴァンサンが娘に会うために押しかけてくる様子を描いたコメディ作品である。2012年フランス大統領選挙の最中、それも決選投票が行われる5月6日にロケを敢行したことで話題となった。

自分の理屈を構築し互いに一歩たりとも譲らないレティシアとヴァンサンの戦い。それを新しい大統領が誰に決定するのか分からず、個々のイデオロギーがぶつかり合うパリの街と重ねる。

夫婦間のミクロの視点を群衆の中へ潜り込ませることにより、マクロで普遍的な人間の対立を浮かび上がらせる手法は『落下の解剖学』へと継承されている。

◾️『ヴィクトリア』(2016)



長編2作目は法廷ものであり、『落下の解剖学』の土台となっている。

ドライな弁護士であるヴィクトリアは、殺人容疑で逮捕されたヴァンサンの弁護を渋々受け入れることとなる。しかし、元夫の迷惑行為への対応、過去の依頼人からベビーシッターをお願いされるなどといった男からの面倒が次々と押し寄せていき、強い女性としてのヴィクトリア像が剥がされていく。

『落下の解剖学』とは異なり、メインとなる舞台を法廷の外側に設定している。本質的な仕事ではないものに振り回されていく女性に迫った作品となっていた。本作における他者からの干渉により人間の内面が引き剥がされていくアプローチは、『落下の解剖学』でも確認できる。

個々の関係を第三者の渦に放り込むことで社会的なものへと拡張していく手法がジュスティーヌ・トリエ監督作の特徴といえるであろう。

◾️『愛欲のセラピー』(2019)



第72回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に選出された『愛欲のセラピー』では、『落下の解剖学』に通じる「真実」にまつわる考察が行われている。

小説家になりたい一心でセラピストを引退することにしたシビルが、担当患者である俳優のマルゴに泣きつかれ、彼女のカウンセリングを継続することとなる。やがて、マルゴの心理を小説に盛り込もうとする。職業倫理に反する異様な物語。

しかし、シビルが開き直ったように言い放つ台詞「人生とはフィクションだ、いくらでも書き換えられる」に着目することにより本質へと迫流ことができる。

書く行為は、自己の思索をまとめることである。また、他者の眼差しを通じて物事を考えることは自分を客観視することである。精神疾患を抱えたマルゴの眼差しを通じてシビルの行き詰まった人生に活路を見出すプロセス(=個人)。患者が吐露する内面の断片を繋ぎ合わせて活路を見出すカウンセリング(=社会)。

双方を、小説を書く行為で繋ぎ合わせることにより普遍的な人間の活動を見出そうとしているのだ。

『落下の解剖学』では、事実を繋げていく行為が接着剤の役割を果たしている。夫婦における問題、そして夫の死といった個人の問題が、法廷やメディアといった社会的な場での論争に発展する。

検証や証言といった事実を繋げていく行為を通じて個人と社会が交わり、もっともらしい真実を選んでいくのである。

▶︎『愛欲のセラピー』を観る

『ゴーン・ガール』との意外な共通点

◾️ジュスティーヌ・トリエ監督のお気に入り映画『ゴーン・ガール』

(C)2014 Twentieth Century Fox

『落下の解剖学』は意外な作品と共通点がある。それはデヴィッド・フィンチャーの『ゴーン・ガール』である。この作品は、妻の失踪をきっかけに大規模な捜査が行われる中で次々と思わぬ事実が発覚していくミステリー作品だ。

トリエ監督はカイエ・デュ・シネマのアンケートで、2010年代ベスト映画に『ゴーン・ガール』を選出している。

これを踏まえて『落下の解剖学』を観ると、彼女は明らかに本作を参考にしている。まず、サンドラとサミュエルはどちらも作家である。彼は作家であるのだが行き詰まっている。一方、彼女は講師をしながら作家を目指しており、殺人に関する策略を匂わせた発言をしている。



『ゴーン・ガール』の夫婦はどちらもライターである。ライターとして挫折し、短大で講師をしながらバーを経営する夫。日記を綴りながらとある策略を匂わせていく妻。この関係性を意識しながら、真実を煙に巻いていく。

また『ゴーン・ガール』では現場検証の際に、壁にへばりついた血痕に付箋を貼っていく。『落下の解剖学』では、ダニエルが自分の居場所を把握するために家のあらゆる箇所に質感が異なるテープが張り巡らされており、彼の証言に説得力を与えるアイテムとして機能している。

事実をマーキングしていくアイテムとしての付箋を、事実そのものとしてのテープへ置換していると考えることができる。

さらには、両作品とも気持ちを落ち着かせる場所として中華料理店が使用されているのだ。

『ゴーン・ガール』を観直してみることで新しい発見がある。これもまた『落下の解剖学』の魅力と言えよう。

【ジュスティーヌ・トリエの2010年代ベスト】※順不同
  • ゴーン・ガール(デヴィッド・フィンチャー、2014)
  • インサイド・ヘッド(ピート・ドクター、2015)
  • ありがとう、トニ・エルドマン(マーレン・アデ、2016)
  • ヴィジット(M・ナイト・シャマラン、2015)
  • 死霊館(ジェームズ・ワン、2013)
  • RAW~少女のめざめ~(ジュリア・デュクルノー、2016)
  • ヘレディタリー/継承(アリ・アスター、2018)
  • The Knick /ザ・ニック(スティーヴン・ソダーバーグ、2014-2015)※TVシリーズ 
  • ガールフレンド・エクスペリエンス(エイミー・サイメッツ、 ロッジ・ケリガン、2016-2021)※TVシリーズ 
  • Girls/ガールズ(レナ・ダナム、2012-2017)※TVシリーズ

(CAHIERS DU CINEMA Décembre 2019 N°761より拙訳)

▶︎『ゴーン・ガール』を観る

◾️共同脚本家アルチュール・アラリの2010年代ベストも調べてみた

カイエ・デュ・シネマでは、『落下の解剖学』共同脚本家であるアルチュール・アラリの2010年代ベストも確認できる。

【アルチュール・アラリの2010年代ベスト】※順不同
  • ビリー・リンの永遠の一日(アン・リー、2016)
  • メクトーブ, マイ・ラブ(アブデラティフ・ケシシュ、2017)
  • 湖の見知らぬ男(アラン・ギロディ、2013)
  • 魂のゆくえ(ポール・シュレイダー、2018)
  • 光りの墓(アピチャッポン・ウィーラセタクン、2015)
  • アクト・オブ・キリング(ジョシュア・オッペンハイマー、2012)

[コメント]
もちろん、他にも好きな作品はありましたが、思い返せば、これらは比類なき夢のようなものであり、夢が終わった後も残り続けているのです。

(CAHIERS DU CINEMA Décembre 2019 N°761より拙訳)

このリストを眺めると、メディアのユニークな使用が特徴的な作品が並んでいることに気付かされる。



『ビリー・リンの永遠の一日』では、通常の映画が1秒間に24コマのフレーム数で制作されるのに対し120コマで描かれている。フレーム数が多くなればなるほど、現実を正確に捉えられる。イラク戦争の凄惨さをリアルに捉えた作品に思えるのだが、どこか我々が普段見る光景と異なる質感を宿している。その上、映画らしさが感じられない奇妙さを抱く。

『アクト・オブ・キリング』は、インドネシアで行われた虐殺をテーマに恐ろしい実験を実施している。加害者に虐殺の再現映画を作らせることで真実を明らかにするのである。フィクションを強調した幻想的な映画の隙間から凶悪な影が滲み出る作品となっている。

どちらも、よりリアルな真実を追体験させるためにメディアが効果的に使用されている。『落下の解剖学』では、これらの技法を応用している。異なるメディアを通じて登場人物たちが提示する真実を天秤にかけていくのである。



現場検証の場面では家庭用カメラで撮影したような手ブレが激しく粗い画が提示される。法廷では模型、CGでの再現映像、証拠物件の音声データなど様々な形の情報を通じて議論が行われる。そこへ、映画的画が挿入されることで無数の真実が強調され、観客を翻弄し続けるのである。

このように、関連作品を追っていくことで二度三度美味しい作品、それが『落下の解剖学』なのだ。

(文:CHE BUNBUN)

参考資料


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