『猫の恩返し』が明るく!楽しい!親しみやすい!作品になった「7つ」の理由
『猫の恩返し』についてそれまでのスタジオジブリ作品とは違った雰囲気の、「明るく・楽しい・親しみやすい」作品であることに異論のある方はほとんどいないでしょう。ここでは、本作の制作経緯を振り返るとともに、なぜこのような作風になったのかについて解説します。
※本文では『猫の恩返し』本編の内容に軽く触れています。まだ観たことがないという方はご注意ください。
1:もともとはテーマパークの企画!太った猫のムタという“キャラクターありき”だった?
本作『猫の恩返し』の企画の発端は、某企業から「テーマパークのシンボルとなるキャラクターを作ってほしい」と依頼されたことだったそうです。企業側は “猫をモチーフにしたデザイン”を要望し、スタジオジブリ側が既存の作品から候補をいくつか出したところ、『耳をすませば』にいた“ムタ(別名はムーン)”という太った猫が気に入ったため、「そのムタを使って20分ほどの短編アニメを作りましょう」という流れになったのだとか。
そこで『耳をすませば』の原作マンガの作者であった柊あおいさんに、アニメ化を前提としたマンガの執筆を依頼したところ、思っていた以上にボリュームの大きい物語になったため、鈴木敏夫プロデューサーは70分ほど(実際の上映時間は75分)の長編アニメとして制作するよう方向転換したのだそうです。
本作の企画の発端が「テーマパーク向け」「愛嬌のある太った猫というキャラクラーありき」なのですから、これだけでも楽しい作品になったことが何となく理解できますよね。
2:『猫の恩返し』は『耳をすませば』の月島雫が大人になってから書いた話!だからこそ“余裕を持って”いたのかも?
『猫の恩返し』は都市伝説のように「『耳をすませば』のヒロインの月島雫が書いた話」と語られていることも多いのですが、これはれっきとした事実であると原作マンガを描いた柊あおいさんが明言しています。
何しろ、『猫の恩返し』の原作マンガである「バロン 猫の男爵」のクレジットを「原作/月島雫 絵/柊あおい」にするという案があったくらいなのですから。(この案は『耳をすませば』を知らない人にはわかりづらいということでやめたのだそうです)
柊あおいさんは「『耳をすませば』の世界の中でまた違う話を作ると、お互いの理屈合わせが難しい」「一方で『耳をすませば』とのつながりは持たせていたい」という理由からその設定を思いつき、「『耳をすませば』の時よりも雫は成長して、かつて書いた“バロンが旅をする物語”を書き直しているのではないか、大人になった雫が書いたものという風にしよう」と決めたのだとか。
そうすることで“雫が体験したことが必ず物語の中に入る”ため、読者(観客)は両者の作品のつながりを探すことができるとも、柊あおいさんは考えたのだそうです。
『耳をすませば』における雫は、中学3年生で受験勉強をしなければいけない時期に小説の執筆に没頭してしまい、切羽詰まったまま物語を無理やり仕上げようとしている、まるで“生き急いでいる”印象がありました。
その雫が大人になって物語を書き直して出来上がったのが『猫の恩返し』とするのであれば、昔とは違って“余裕を持って”この物語を書いたのではないか、だからこそ明るく楽しい作品になったのではないか、とも思えるのです(もちろん、勝手な想像にすぎませんが)。
また、映画『耳をすませば』において、太った猫のムタは気ままに楽しく生きている、焦って小説を書いていた雫とは対照的な存在でした。
そのムタが『猫の恩返し』では準主人公として大活躍するのですから、大人になった雫はムタのような“自由に気ままに生きる”という価値観も大切に思うようになったのではないか、とこれまた想像が膨らむのです。
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余談ですが、柊あおいさんによると、“猫の国に迷い込む”という物語を思いついたのは、日常的ではない話をいろいろと考え、どうしても行き詰まってしまった時に「猫が恩返しをする話」を思いつき、その流れで「猫が人の言葉を理解したりしゃべったりする」「猫がされたら嬉しいことをしてくれる」世界に移行したらおもしろいのではないか、考えたからなのだとか。
言うまでもないことですが、猫が喋ったり、恩返ししてくれるという発想そのものが、やっぱり「楽しい!」ですよね。
3:“10代の女の子を励ます映画”になっていた!その悩みを深く描かなった理由とは?
『猫の恩返し』の監督に抜擢された森田宏幸さんは、『ホーホケキョ となりの山田くん』にも原画として参加していた若手で、あるとき宮﨑駿監督は柊あおいさんが書いたストーリー原稿を彼のところに持ってきて「演出やる?やるって言いなさい」と半ば強引に森田さんを監督にしようとしていたのだとか。
若手に監督を任せたのは、鈴木敏夫プロデューサー曰く「もっと若いスタッフにも(監督をする)場所を与えたい」という目的もあったのだそうです。
その森田監督は、『耳をすませば』とは別の1本の映画にしようと考えていた一方、10代の女の子が主人公であるという共通点をどうしても切り離して考えることができなかった、『耳をすませば』のファンが観ても納得できる作品にしたかったという想いから、「10代の女の子を励ます映画を作ろう」という風に折り合いをつけていったのだとか。
さらに、宮﨑駿監督からも「厳しい現実や深い悩みは、隠しておいて、ちょっと出せばいい」とアドバイスを受け、森田監督は「10代の女の子が抱えているであろう、悩みや苦しみはうっすらと見えればいい。観客がそれぞれの立場で自由に想像を付け加えてもらったほうがいい」と考えるようになったそうです。
『猫の恩返し』のヒロインであるハルは、よく遅刻したり、憧れの男の子はいても遠くから見ることしかできなかったり、熱中する部活を持っていなかったりと、普通の女子高生らしい悩みを持っていたようでした。
とはいえ、その悩みはそれほどセンチメンタルに深く掘り下げることはなく、同時に普遍的に多くの人が共感できる、「きっとこうなんだろうな」とも想像できる程度のバランスに止めています。それもまた、『猫の恩返し』が「明るく・楽しい・親しみやすい」作品になった理由なのでしょう。
4:ハルの家が母子家庭である理由とは?“今は楽しく暮らしている”ということが重要だった!
前述した「悩みや苦しみを深くは掘り上げないけど、“こうなんだろうな”と想像が膨らむこと」のもう一つの例に、ハルの家が母子家庭ということがあります。
母は自宅でパッチワークの仕事をして、ハルに「ご飯作ってぇ」と言っているように家事を任せることもあったようですが、母子家庭になった理由の具体的な説明はありませんでした。
実は森田宏幸監督も、その母子家庭については明確に設定を考えはおらず、原作者である柊あおいさんにも尋ねなかったのだそうです。その理由は「そっとしておきたい」というものであり、同時に「今の二人が明るく暮らしているということは確か」であり、「たとえ過去に悲しい出来事があったとしても、それをこの映画で描く必要はないし、そういう経験をこの親子は乗り越えてきたんだろうなって、お客さんに想像してもらいたい」という意図もあったのだそうです。
これは、世の中にたくさんいるであろう、母子家庭で育ってきた人の気持ちに寄り添っているとも言えます。
あえて理由や経緯を限定的にしないことで、より自身の境遇と重ね合わせやすくなり、かつ「過去はどうあれ、今(から)は楽しく暮せばいいじゃない」と前向きな気持ちにもなれるでしょうから。
5:バロンは実は“名探偵”!宮﨑駿監督の要望が反映されていた?
実は、宮﨑駿監督が本作の企画において初めにイメージしていたのは、「バロンが名探偵となり、相棒のムタと一緒に難事件を解決するミステリー冒険活劇」だったのだそうです。
柊あおいさんが書いてきたのは“猫の国に迷いこんでしまうファンタジー”であり、決して探偵ものとは言えない内容ではあったのですが……そのバロンにけっこう“探偵らしい”面があるというのも、興味深いものがあります。
まず、『猫の恩返し』のバロンは地球屋という猫の“事務所”の主であるという設定になっています。しかも、ムタが「ありゃあまやかしだ。自分の時間を生きられないヤツの行く所さ」と猫の国を冷ややかに見ている一方、バロンは「実は私も猫の国へは一度行ってみたかった。いい機会かもしれん」と、“好奇心”で行動しようとしていることもありました。
危険に身をさらすことも厭わないこと、“依頼人”であるハルの危機を救うことも含め、実に探偵らしいですよね。
森田宏幸監督も、柊あおいさんの原作マンガからイメージを大きく変えることはなかったものの、宮﨑駿監督から「バロンは“快男児”だよね」というアドバイスを受けたこともあり、バロンを大胆で快活、自分の考えで主体的に行動するヒーローにしていったそうです。
『猫の恩返し』が観ていてとにかく楽しいのは、このカッコいいバロンというヒーローと一緒に冒険ができること、同時に探偵でもあるバロンというキャラクターそのものの魅力によるところが大きいのは、間違いないでしょう。
6:“成長劇”ではなかった!「自分の時間を生きる」の意味とは?
『猫の恩返し』の脚本を務めた吉田玲子さんは、森田宏幸監督から「成長劇にはしたくない」という要望を受けたのだそうです。
その理由は「事件があったからといって、人はそうそう変わるものではない、そういう意味で、ハルが自分の中にあるものを確かめる話にしたい」というもので、吉田さんはその言葉を“映画を見にきてくれる女の子への応援”と解釈し、「特別なことが何もなくても確かに生きていける、そんなちょっと誰かの背中を押してあげる作品にすればいい」と考えたのだとか。
さらに、吉田さんが脚本の執筆においてキーとしたのは、柊あおいさんの原作マンガにもあった「自分の時間を生きる」という言葉でした。
これを吉田さんは「自分の人生を積み重ねることで見えてくるものがある」と解釈し、劇中の冒険を「ハルは(冒頭で猫をラクロスのラケットで救ったように)もともと動物を助ける優しい心を持っている。そのために厄介なことに巻き込まれてしまうけど、それは自分の良さなんだとハルが自分自身で確認する」というものであると考えたのだそうです。
その上で、吉田さんはハルが迷い込む猫の国を「ただ、ハルがそこに行った体験を持ち帰る場所」として割り切って認識していたのだとか。
まとめると、本作はその人間性がガラリと変わるような成長物語ではないものの、今までの人生で積み重ねていた“自分の良いところ”を見つめ直す、という物語になっているということです。
同時に、猫の国に迷いこむといった特別な出来事がなくても、その“自分の良いところ”を見つけるチャンスは現実のどこかにあるのかもしれない、というメッセージも内包されているのです。
7:悪役が憎めない理由とは? “心のスキマ”の危険性が描かれていた!
本作におけるボスキャラの猫王、その手下であるナトリとナトルというキャラは、作劇上は悪役であるはずなのに、どこか憎めません。彼らは「自分たちの価値観を押しつけようとする」ものの、間が抜けていて、ある意味で悪気もないですものね。
とはいえ、彼らに悪気がないからこそ、優しい性格のハルはその企みに乗ってしまい、あわや猫になりかけてしまったのでしょう。ハルの「猫の国もいいかもね」というセリフは、ちょっと落ち込んでしまう出来事が続いていた彼女の“心のスキマ”を意味しているとも言えます。
『猫の恩返し』はとっても楽しくて、良い意味でゆるい雰囲気で楽しめる作品ですが、実は心がゆるゆるになりすぎると、騙されてしまったり、善意につけ込まれてしまうことにもつながるのではないか?という危険性も訴えられているとも言えるでしょう。
とはいえ、そのことさえも「明るい冒険」「楽しそうな猫の国」に装飾されているので、全く深刻な雰囲気にならないのですけどね(それも作品の良いところです)。
まとめ
『猫の恩返し』以前のスタジオジブリの長編作品は、基本的に宮﨑駿または高畑勲のどちらかが監督を務めていました(例外となるのは宮﨑駿が脚本として参加している『耳をすませば』のみ)。
しかしながら、『猫の恩返し』は前述したように若手である森田宏幸さんが監督を務めた他、スタッフも脚本家の吉田玲子さんをはじめスタジオジブリ所属ではない者が多く起用され、何よりも“スピンオフ”として制作されたという、ジブリの歴史では “異例”と言える作品になっています。
今までのスタジオジブリとは全く違った、この制作体形および経緯も、『猫の恩返し』が宮﨑駿監督と高畑勲監督の作品とは全く違う、 「明るく・楽しい・親しみやすい」作品になった理由の一つなのでしょう。
そのためというべきか、ストーリーが直線的かつシンプルで、深みがないという意見も耳にしますが、それは決して一概に欠点と呼べるものでもなく、前述したように“10代の女の子を励ます映画”としての魅力を突き詰め、悩みや苦しみといった感情を過度に掘り下げなかったからこその、『猫の恩返し』という作品が持つ独自の魅力とも言えます。
ぜひ繰り返し観て、観た人それぞれの“自分の良いところ”にも気づいてみてほしいです。
参考図書:
- 路地のむこうは猫の国—猫の恩返し&ギブリーズ徹底ガイド
- 猫の恩返し (ロマンアルバム)
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