『天気の子』の深すぎる「10」の盲点
8:天気と人間の関係性の変化が“お花見”の話題で示されていた!
本作では“天気と人間の関係性の変化”も描かれています。具体的には、ラストシーンの直前、3年(実際の時間経過は約2年半)の間ずっと雨が降り続いていて、東京の一部が水の下に沈んだにも関わらず、テレビでは「穏やかな気候が続き、桜も長く楽しめるでしょう」と予報がされているのです。しかも、道ゆく女性からは「あんたって本当にポジティブよね」「週末のお花見楽しみ!」という会話も聞こえてきます。
つまり、“お花見は晴れの日にするもの”という常識が3年のうちに覆された、雨の日でも桜を見て楽しむことはできると、人々の天気の向き合い方が変わっていったことが示されているのです。そしてラストシーン、陽菜が祈っていたその場所でも桜が咲いていて、やってきた帆高を見つけた陽菜の眼前には桜の花びらが舞うのです。
陽菜の晴れにする巫女の力は確かに人々を幸せにしていましたが、たとえ雨が降り続いていたとしても、人々はたくましく生活を続けていました。神主の老人は「天の気分は正常も異常も測れるものではない」「我ら人間は湿って蠢く天と地の間で振り落とされぬようしがみつき、ただ仮住まいをさせていただいているだけの身」などと言っており、最近はすぐに異常気象だと世間が言ってしまうことにも苦言を呈していました。
確かに天気により困らされたり、塞いだ気持ちになってしまうことはあるけれど、どのように天気と向き合うかによって、変わってくることもあるのではないか、ポジティブに生きていくことはできるのではないか──『天気の子』は、そのような問いかけもされているのです。
余談ですが、この“雨の日でもポジティブな考えを持つ”ということは新海誠監督の過去作『言の葉の庭』にも通じています。こちらには「どうせ人間なんて、みんなどっかちょっとずつおかしいんだから」という、『天気の子』で須賀が言っていた「世界なんてさ、どうせ元々狂ってんだから」と似たセリフもありました。
その他、前述した桜というモチーフは『秒速5センチメートル』にもありますし、世界とヒロインの関係性は『雲のむこう、約束の場所』も想起させました。言うまでもなく様々な天気における美しい光景を描いているということは、新海誠監督の多くで共通しています。前作『君の名は。』において、川村元気プロデューサーには“新海誠監督のベスト盤にする”という意向があったのですが、今回の『天気の子』も新海誠監督の過去作のエッセンスを拾い出し、その作家性と価値観を前面に打ち出した内容になっていたと言っていいでしょう。
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(C)2019「天気の子」製作委員会