ストレスを興奮・感動・涙に変える大傑作『ワイルド・ギース』
ミッション遂行型エンタメの
見本ともいえる描出の数々
本作はエンタテインメントの見本といっても過言ではないほどに、ミッション遂行映画としての韻を巧みに踏んでいます。
まずはミッション遂行のための仲間集め。ここで様々なキャラクターの魅力をどれだけアピールできるかによってその後の展開のスリリング度も変わってきますが、本作はリチャード・バートンという名優をメフィスト的存在に据えながら、リチャード・ハリスやロジャー・ムーア、ハーディ・クリューガーといったスターの魅力を最大限に引き出しながら、見る者に彼らのミッションでの活躍を大いに待望させてくれます。
リチャード・ハリスは当時『ジャガーノート』(74)『カサンドラ・クロス』(76)『オルカ』(77)など映画スターとして脂の乗っていた時期で(80年代以降は映画を離れて舞台中心の活動へ移行)、ここでは理想主義者で息子想い、しかし旧友との友情も捨てきれず、一方では長年体に染みついた作戦参謀としてのこだわりの一面をさらりと体現してくれています(アレンに地図を見せられたときの、彼のオタク的反応たるや!)。
ロジャー・ムーアはこの時期、3代目007として名を馳せていましたが、ここではそんな彼のイメージを裏切らないプレイボーイ的資質に男気を加えたキャラクターに据えています(ちなみにロジャー・ムーアはこの後に出演した同じアンドリュー・V・マクラグレン監督の1979年度作品『北海ハイジャック』では、女嫌いで猫好きという設定でした)。
ハーディ・クリューガーは『シベールの日曜日』(62)などで知られるドイツ出身の名優ですが、ここでは黒人差別主義者というマイナスイメージの役柄を演じることで、当時南アフリカ共和国が敷いていたアパルトヘイト政策の非道を、ラルフ・ネルソン監督の『ケープ・タウン』(74)に続いていち早く映画を通して世界に訴える役割をも担っており、またこの設定は後半大きなドラマのうねりにも繋がっていくのでした。
続けて部隊の厳しい訓練が綴られていきます。
軍隊の訓練がいかに過酷であるかは『フルメタル・ジャケット』(87)などでご承知の通りですが、本作の描写は辛辣ながらもユーモラスで、しかしながら今の目で見据えても映画的に違和感を覚えない優れものになっています。
それは監督のアンドリュー・V・マクラグレンが西部劇の神様ジョン・フォード監督作品の助監督などを務め、そのスピリッツを受け継ぐ後継者的存在であったこととも無縁はないでしょう。
そう、『ワイルド・ギース』は往年の西部劇タッチを傭兵ミッションものに巧みに転化させながら進んでいきますが、ここでの訓練描写こそはその極みであり、さらにはその象徴として登場するのがジャック・ワトソン扮するサンディに他なりません。
アレンとサンディの関係性は、まるでジョン・フォードの騎兵隊映画におけるジョン・ウェインとその部下たちにも置き替えられるものがあります。
訓練終了後、アレンは老齢のサンディに多額の報酬を与え、ミッションには参加しないよう計らいますが、彼はそれを拒否。
また常に「フォークナー大佐」と敬称するサンディは、当のアレンに「ふたりっきりのときは俺をアレンと呼んでくれ」と言わせてしまうほどのカタブツ男でもあり、こうした漢を愛すべき存在として描くのが西部劇の常でもあるのでした(また、ここでのシーンも後々の、さりげなくも大きな感涙の伏線となっていくのですが、悔しいことにソフト収録の日本語吹替版は、そのことに気づいていない愚訳を施している! 字幕のほうは大丈夫ですけど)。
こうした猛者を率いるアレン役のリチャード・バートンは、彼の俳優としての基軸でもあるシェークスピア劇の登場人物のように、善悪のみで切り取ることのできない人間のサガを巧みに体現しています。
金のために戦争を請負う男の非情さ、普通の生活に戻っているかつての仲間たちを再び殺戮の戦場へ誘うメフィスト的な面と、その仲間たちに心からの信頼と敬意を怠らない友情厚き漢としての面など、一言では言い表せられない人間の複雑怪奇なさまざまな側面がバートンの名演によって描出され、その結果、一見好戦的に捉えられがちな本作を(現に公開当時は「こんな好戦映画は許せない!」といった一部の批評家の酷評もありました)、その実秀逸な人間ドラマとして屹立させてくれることにもなりました。
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