映画コラム

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2020年10月08日

『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ』レビュー:“家”にこだわる“人”から窺える“今”

『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ』レビュー:“家”にこだわる“人”から窺える“今”



人と家、そして
サンフランシスコ


本作は主演ジミー・フェイルズの人生のキャリアを基に、彼とその旧友でもあるジョー・タルボットが原案を構築し、タルボットが長編初監督に挑んだ作品です。

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ジミー・フェイルズは6歳までサンフランシスコのフィルモア地区で育つも、その後立ち退きを余儀なくされ、その後は公営住宅や避難施設で暮らしていたとのこと。

フィルモア地区は、もともと日系人が移住し発展させてきた地区でしたが、1941年12月に勃発した太平洋戦争のあおりを受けて、翌42年に日系人は収容所へ強制移住。その後は黒人が中心となって同地区のコミュニティを確立していったものの、やがては彼らも白人富裕層によって立ち退きを余儀なくされていったという経緯があります。

その意味ではアメリカ白人社会のひずみを体現しているかのようなサンフランシスコのフィルモア地区ではありますが、ジミー・フェイルズは同地区に住んでいた幼い日々の思い出を忘れたことはなく、その象徴として当時自分たちが住んでいた家があったとのこと。

人が生きる上で「家」とは一体何なのか?

少なくともフェイルズにとっての「家」は、祖先から脈々と受け継がれるアイデンティティを体感できると信じられる空間なのかもしれません。

だから本作の主人公ジミーも徹底して「家」にこだわります。

一方で、ジミーの親友モントは、住む家があるのかどうかも定かではないようなチンピラ黒人グループとの交流を図りつつ、ひいてはそれがひとり舞台の公演に繋がっていきますが、グループの存在は彼らにとっての「家」なのか否か?

また、いつもモントの解説付きでテレビを見ている盲目の祖父(ダニー・クローヴァー)の存在も、終の棲家としての「家」を痛感させられます。

さらには黒人だけでなく、ジミーらを叱責していた白人夫婦が遺産相続のトラブルで家を手放さざるをえなくなったときの慟哭も、本作は決して見逃しません。

アルツハイマーなのか、全裸でバスを待つ白人老人(彼の家は、つまり家族は一体どういう状況なのでしょうか?)を観光客が変態とからかう短いシークエンスからも、サンフランシスコの、そして世界の「今」が見えてきます。

本当に、人にとって「家」とは一体何なのか?

正直、今の日本社会ではここまで「家」にこだわりを示す人はさほど多くはないかもしれませんが、今の不況がさらに深刻化していったとしたら、ジミーのような人間も増えていくかもしれません。

後半の意外な展開も含めて、人と家の切っても切れない関係性をサンフランシスコの街に託して描いたヒューマン映画として、映画ファンならずとも見逃せない作品です。

(文:増當竜也)

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