<東京が焼け野原?>『東京自転車節』は狂気あり笑いありのリアル・ロード・ドキュメンタリー
“ジョーカー”への変貌
筆者がこの映画で最も驚愕したのは、“純粋で朴訥”キャラだったはずの青柳監督が、一瞬ではあるものの“ジョーカー”としての顔貌をスクリーンに晒す瞬間である。そのギャップに、心底震え上がってしまった。
青柳監督のコメントを抜粋してみよう。
「僕は問題を指摘したり怒って糾弾することが苦手で、何か理不尽なことがあると笑って受け入れてしまうところがあります。(中略)映画の後半はさながら『ダークナイト』や『ジョーカー』のような雰囲気になっていますが、当時の自分は確実に社会に対しての違和感や鬱憤が蓄積されていたんだと思います。自分で言うのもなんですが、自分のあんな素敵な笑顔は久しぶりにみました。まさか狂った先に笑顔があるだなんて思ってもいなかったし、それこそジョーカーのようで、恐ろしい状況だったと思います」(映画パンフレットより抜粋)
未見の方のために詳細は省くが、映画の終盤、自転車を漕いでいる青柳監督の表情が、みるみるうちに狂気に侵されていくようなシーンがある。ただ注文を受けて配達をしているだけなのに、「本当に青柳監督は、正気を保ったまま目的の場所にたどり着けるのだろうか?」とか、「突然自動車に衝突したりするんじゃないだろうか?」とか、筆者はあらぬ心配をしてしまったのである。
思えば2019年に公開された『ジョーカー』は、架空都市ゴッサム・シティを舞台に描かれる“ヴィラン誕生譚”だった。財政は崩壊し、貧富の差は拡大の一途を辿り、街は貧困と暴力に溢れている。主人公のアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、コメディアンとしての成功を夢見ながらピエロとして日銭を稼ぐ日々を過ごしているが、やがて精神のバランスを崩し、ジョーカーとして覚醒するに至る。街の毒気が、ひ弱で心優しい青年を悪のカリスマへと染め上げたのだ。
青柳監督は白塗りメイクを施して階段で踊ったりしないし、ジョーカースマイルを浮かべて暴徒たちを扇動したりもしない。ただ、無我夢中で自転車を漕ぎまくるだけだ。だが肉体的にも精神的にも疲労し、街の毒気を浴び続けることで、彼は“変貌”する。ケタケタと笑いながら舌を出し、「孤独」だの「ハイエナ」だの呪詛の言葉を唱え続ける。その“変貌”が、GoProを通して活写されているのが生々しい。
「GoProは単純に迫力のある映像を撮れるだけでなく、撮り手の肉体的な疲労とシンクロしやすいと感じていました。GoProを肌身離さず持って撮影していれば、体の一部になったようなしっくり感を作り出すことができるとわかったので」(映画パンフレットより抜粋)
ジョーカーにメタモルフォーゼするまでの過程が、YouTuber的セルフ・ドキュメンタリーという手法をとることによって、身体感覚を持って描き出されているのだ。こんなの、本家本元の『ジョーカー』でも観たことない!
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