『天国にちがいない』レビュー:“現代のチャップリン”の旅から窺えるパレスチナと世界
増當竜也連載「ニューシネマ・アナリティクス」
パレスチナ問題とは、実に複雑怪奇で、とても簡単に語ることなどできないものでもあります。
しかし、そのパレスチナ問題を常にユニークな視点で描き上げ、“現代のチャップリン”と称される映画監督がいます。
”パレスチナ系イスラエル人”エリア・スレイマン監督。
そして『天国にちがいない』は、スレイマン監督が10年ぶりに手掛けた新作映画。
ここではアイロニーかつユーモラス、そして詩情豊かなイマジネーションに満ちた映画監督の“旅”が描かれていくのです。
パレスチナ系イスラエル人監督ESの
パリ→NY、映画企画売込みの旅
『天国にちがいない』の主人公はパレスチナ系イスラエル人の映画監督ES(エリア・スレイマン)。
イスラエル領内ナザレの自宅で物思いにふけっていると、庭のレモンの樹から果実をもぎ取ろうとしている泥棒を発見します。
散歩に出ると、街は物騒な男たちが闊歩しているかと思いきや、続いてパトカーの音が鳴り響きます。
レストランに入ると誰かがクレームを出してますが、店員の冷静な対応で何とか丸く収まります。
別の日には不思議な老人から不思議な話を聞いたり、お隣の家では親子喧嘩の怒鳴り声が聞こえてきたり……。
まもなくしてESは、次作の映画企画を売り込むべく、フランスはパリに赴きます。
豪華なホテルで優雅に宿泊している……のですが、外はどことなく戒厳令のように不穏な空気が。
人通りはまばらで、教会の前には施しを受けようとする貧しい人々で長蛇の列ができています。
ナポレオン像のあるヴァンドーム広場では、突然戦車が後ろから!
まもなくして軍事パレードで街は活気を取り戻していきますが、映画会社を訪ねたESはプロデューサーから「パレスチナ色が薄い」と、企画を断られてしまいます。
続いてESは、アメリカ、ニューヨークへ赴きますが、ここでもどこか日常とは少しずれた不可思議な体験ばかりをしていきます。
タクシー運転手から「パレスチナ人に初めて会った!」などと勝手に盛り上がられたり(要するによそ者扱いを受け)、かと思うと映画学校のインテリ層からは「著名なパレスチナ監督」として厚遇されたり、そのギャップは甚だしいものがあるのです。
また、肝心の映画企画の売り込みのほうは、ガエル・ガルシア・ベルナル(本人)の協力を得て映画会社を訪ねることが叶うも、テーマが「中東の平和」と聞かされたプロデューサーの態度は……?
そして最後に相談したタロット占い師の占いの結果は……?
現代パレスチナ問題と世界との
忸怩たるほどの共通項とは?
このように本作は、ひとりの映画監督の自国から異国へと場所をいくつか変えつつ、不慣れで滑稽な風景の数々に直面するも成す術もない、あたかも人生そのものの縮図のような旅を体験していきます。その風景の数々は、いずれもクスクスと笑いが漏れるような漏れないような微妙に微笑ましいものばかり。
ずっと見ていきますと、映画ファンならES=エリア・スレイマン監督が「チャールズ・チャップリンよりも、彼の良きライバルでもあったポーカーフェイスの喜劇王バスター・キートンに例えたほうがふさわしいのでは?」と、思わされることでしょう。
劇中、彼はほとんど無表情でにこりともせず、台詞も「ナザレ」「パレスチナ人だ」のみなのです。
現在も解決の糸口がなかなか見出せないパレスチナ問題ですが、当然ながらイスラエル系パレスチナ人のエリア・スレイマン監督は忸怩たる想いを抱き続けています。
1948年にユダヤ人がパレスチナで突然新国家の建国を宣言したとき、先住のアラブ人は外に逃れて難民となるか、その地に留まるかの選択を迫られました。
後者を選んだ者はパレスチナ系“イスラエル人”として、今も先祖代々の土地で生活しています(イスラエル人口のおよそ4分の1とのこと)。
しかし彼らは「第二級」市民としての扱い。
一方で、外部からは「ユダヤ人に屈した裏切り者」とみなされる向きもあります。
こうした歴史の中、ナザレで生まれ育ったエリア・スレイマンは、21世紀に入った世界全体がイスラエル社会のようにテロにおびえながら生活するようになっていることを憂えています。
同時に、あたかもパレスチナ系イスラエル人のように階級差別がはびこるようになってきていることも……。
(日本でも「上級国民」なんて嫌な言葉が浸透し始めていますね)
エリア・スレイマンはこういった世界的な状況に対して、映画を用いて拳を振り上げながら戦おうとするのではなく、ひたすら嘆息しながらの脱力モードで諦念を一貫させています。
さらには、そこから醸し出されるアイロニーに満ちたユーモアによって、自作に接する人々にパレスチナ問題はもとより、「あなたたちが住んでいる社会とパレスチナ問題は繋がっているのですよ」ということを淡々と、しかしながら切々と訴え続けているのです。
ナザレでは一見平凡に生活しているかのようなESですが、実は平凡なふりをしているだけであり、家の中からも泥棒の姿を見つけることが出来てしまうという非凡な暮らしを強いられている。
その生活は異国へ赴いても同じで、しかもパレスチナ問題に対する意識が薄く誤った認識も多いだけに、もう何も言い返すことできない……。
人間、無表情ほど雄弁なものはないとはよく言われることですが、本作のESはもうほとんど何も言い返したり文句を言ったりすることはありません。
かといって目を背けることもなく、自分の周りで見聞きできてしまうものとひたすら対峙しつけていくのです。
それは滑稽であれ、勇気のある行為でもあるのかもしれません。
こうこう書いていくにつれ、彼が“現代のチャップリン”と称される所以も徐々に理解できてきました。
チャールズ・チャップリンもまた体制の不正や戦争などの不条理と、映画を通して対峙し続けていたからです。
バスター・キートンのようなポーカーフェイスを貫きながら、チャールズ・チャップリンと同等の姿勢を撮り続けるエリア・スレイマン。
要するに、彼こそ「21世紀の喜劇王」と称すべきなのかもしれませんね。
(文:増當竜也)
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