<映画コラム>夏の思い出は「できなかったこと」が作り出す
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<映画コラム>夏の思い出は「できなかったこと」が作り出す
本サイト「cinemas PLUS」で今月から月刊企画が開始された。初のお題は「夏の終わりに観たい映画」だそうだ。この文章を書いているのは2021年9月21日で、季節のうえではすっかり秋なのだが、東京は妙に暑い。何なら先程まで出遅れた蝉が一匹、近所の公園で孤独に啼いていた。
最近は夏が終わったと思ったらいきなり夏日がやってきて、それを過ぎるとぐんと涼しくなる。「暑さも寒さも彼岸まで」なんて最近は当てはまらないかもしれないが、残暑と秋が少しずつクロスフェードしていくような今の時期を「夏の終わり」とするのは比較的しっくりくる。
間に合わなかった蝉と地球環境の話はさておき、毎年、夏になる前には「あれをしよう、これをしよう」と計画を立てて着実に実行していく人もいれば、8月の終わりに「結局、何もせずに終わってしまったな」と、ため息を吐く方もいると思う。あるいは「あれはやったけど、これはできなかった」といった中間の人もいるだろう。
突き詰めれば、夏というか、夏の終わりの回想は「やったこと」と「できなかったこと」で形作られるように思える。その割合は人それぞれだけれど、今年に限っては「できなかったこと」が多い人がほとんどではないだろうか。
「できなかったこと」というと、なんだか後悔のように思えてしまうかもしれないが、いつだって「できなかったこと」の話は、「やったこと」の話よりも楽しい。「今年の夏、好きな子を誘って食事に出かけた」よりも「今年の夏、好きな子を食事に誘いたかった(けど、コロナでできなかった)」なんてほうが、バカみたいな数字で申し訳ないが5億倍は共感できる。
『アナザーラウンド』(C)2020 Zentropa Entertainments3 ApS, Zentropa Sweden AB, Topkapi Films B.V. & Zentropa Netherlands B.V.
Instagramで「湘南のビーチパーティーに行ってきました!」と知り合いの知り合い、くらいのギラギラした投稿を見るよりも、Twitterで「今年の夏はフジに行けなかったけど、来年はきっと行くんだ」みたいな呟きを読んだほうが、再びバカみたいな数字で申し訳ないが「そうだよなぁ、俺も来年は旅行でもしたいな」と5兆倍は共感できるのではないだろうか。それは書き手と読み手が見えない約束を結ぶようで、「やったこと」の話よりも美しいと思う。
今年の夏は、多くの人にとって「できなかったこと」が積み重なっているはずだ。繰り返すが、できなかった話は美しいし楽しい。たとえ後悔していたとしてもだ。「気になる人を食事に誘えなかった」って? 素晴らしい。君が想っている人を感染から守ったかもしれない。「友達と海やプールに行けなかった」いいじゃないか。日焼けしなくて肌が助かったと言っているような気がする。「旧友との飲み会が流れてしまった」次回に向けていつもより大切な約束ができたなら最高だ。「フジロックに行けなかった」残念かもしれないが、今年行かなかったことで来年のテンションが2倍になるかもしれない。「行きつけのバーが閉まっているので飲みに行けなかった」これだって悪くない。店が開いたら大変でしたねと言い合って乾杯するといい。そんな機会は人生でそうそうない。「なんだかすべてが嫌んなって、何もできなかった」不謹慎かもしれないが、それだってきっと悪くない。
適当に考えて陳列してみたが、僕たちは今年、かなり自由を制限された。けれども、できなかったことに対して思いを巡らせるのは自由だ。そして「ああ、あんなことやりたかったけど、できなかったんだ」とか「あれ、やりたかったよね」と、誰かと話題を共有し共感できるのは、今年に限らずどんな季節よりも、夏が強烈に持っている力だと思う。
「夏の終わりに観たい映画」の本命とは
ここでようやく本題に入る。
だとすれば「夏の終わりに観たい映画」の本命とは、夏の終わりに「ああ、あの映画観たかったな」と思うような作品ではないだろうか。この「観たかった映画」は夏が過ぎ去るまで「何が観たったのか」は判明しないし、観てしまえば「夏の終わりに観た映画」になってしまう。つまり「観たことのない映画」こそ、夏の終わりに相応しい。
『ウィリーズ・ワンダーランド』(C)2020 LSG2020, Inc. All rights reserved.
映画には「観た映画」と「観たことのない映画」の2種類がある。ちなみに「ニコラス・ケイジが出演している映画」と「ニコラス・ケイジが出演していない映画」の2種類であるとも言えるのだが、今回は前者を採用する。
夏と同じで、映画も「観た映画(やったこと)」と「観たことのない映画(できなかったこと)」でできている。だが、意外と「観たことのない映画」については語られることがない。「できなかったこと」と同じく、自由で楽しいはずなのにである。
「観た映画」の話も面白いが、それ以上に「観たことのない映画」の話は面白い。たとえば「ありとあらゆる映画を観ているような、とんでもないシネフィルだと思って話を聞いていたら、実はゴダールを1作も観ておらず、かたやホン・サンスは全部観ていると判明した」みたいなことは結構ある。
この人がゴダールを知らないわけがないし、たまたま観ていないなんてのもある筈がない。だとしたら、「ゴダールを観ないという不断の努力をしている」としか思えず……と良くわからない例を持ち出さなくとも、「何を観ていないか」の方がその人を如実に表す。「何を観たか」を積み重ねて全体像を把握するのではなく、「何を観ていないか」の塊を彫刻刀で削り、形を整えていくようなものだ。再び書いている自分にすらまったく意味の解らない例えになってしまい困っているが、要するに、アプローチが逆ということである。
分析しだして知的ぶらなくても「観たことない映画」の話は単純に面白い。映画好き同士で「実は俺、『七人の侍』観てねぇんだよ」とか「今まで適当に話合わせてたけど、スター・ウォーズは旧三部作しか観ておりませぬ」など、まるで懺悔室にでもいるようにノーガードで告白すれば、観た映画の本数を話し合ったり、お互い観た映画の解釈で議論をしたりするよりも、よほど仲良くなれるし笑いあえる。
また「観ことのない映画」サイドには「観たい映画」も含まれる。「あの映画、面白そうだよね」からデートの約束が決まることもあるし、「あの、今流行ってる映画あるじゃん。なんか完全にネタバレ禁止つってさ、きっと凄い仕掛けがあるんだよ」「気になるなぁ」「観たいよなぁ」「あの監督のことだからさ、きっと風呂敷広げるだけ広げて畳まねぇんだよ」「で、最後の10分でどんでん返しするんだよなwww」「無理矢理なwww」「でも、それが面白いんだよなぁ。たぶん今回もそうだから、ネタバレくらう前に観たいよなぁ」なんて話が弾むかもしれない。
「観たことのない映画」の話は、気になる人と付き合う前にあれこれ想像している状態みたいなもんで、それを観ていないにも関わらず、というか、観たことがないからこそ、豊かであると思う。
「観たい映画」や「観たことのない映画」を語ることは、すなわち「未来」について語っているのだが、その叶えられなかった未来だけが「観たかった映画」になり、夏であれば「夏の終わりに観たかった映画」、つまり「夏の終わりに観たい映画」となる。
「観られることのない映画」と言い換えても良い。それはきっと、これまでに制作されたすべての映画よりも自由な傑作であろう。なにせ、自分の頭の中にしか存在しない。
驚くべきことに、その世紀の傑作は想像力さえあれば誰でも、夏の終わりに1本持つことができる。しかも無料だ。
(文:加藤 広大)
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