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映画コラム

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2022年06月24日

『トイ・ストーリー4』が賛否両論である「3つ」の理由と、それでも肯定したい理由

『トイ・ストーリー4』が賛否両論である「3つ」の理由と、それでも肯定したい理由


賛否両論ポイント 1:ボニーがウッディを大事にしてくれなかった

『トイ・ストーリー3』の結末は、アンディがおもちゃたちの名前と特徴をひとつずつボニーに教え、「みんなのこと、大事にしてくれるって、約束してくれるかな? 僕の宝物なんだ」と言い、そして別れを迎えるという、とても感動的なものだった。


しかし、『トイ・ストーリー4』でのボニーはウッディに興味をなくしてしまっている。「大事にするという約束をしたのに……」「『トイ・ストーリー3』のラストが否定されたようで悲しい」という声が挙がるのはもっともだし、その気持ちはとてもよくわかる。

そこにあるのは、「子どもはそんなものだよね」という、ドライな批評だ。劇中でボー・ピープが2度も「子どもは毎日のようにおもちゃをなくす」と言っているのも現実的であるし、ボニーがジェシーとよく遊んでいるがウッディには見向きもしないのは、ジョシュ・クーリー監督の娘が実際にそうだから、という実体験が反映されていたりもする。女の子だから女の子の人形が好き、子どもにはそうした好みが反映されていて、よく遊ぶおもちゃと遊ばないおもちゃがある、というのも普遍的な事実だろう。

もちろん「『トイ・ストーリー3』のラストの先にこのようなドライかつ、悲しい事実を提示されることそのものを認めない」「もう『トイ・ストーリー3』のラストを素直に感動できなくなってしまった」という意見もとてもわかる。だが、その感動的な『トイ・ストーリー3』の結末、ウッディにとっての最高の幸福が、あの瞬間には確かにあったという見方もできないだろうか。

人生は常に流動的であり、ある一定の生き方が永続することはあり得ない。もしも、その先にボニーがウッディに興味をなくしてしまうという悲しい事実が待ち受けていたとしても、あの幸福に満ちた別れの瞬間は確かに存在していたし、ボニーが「私のカウボーイだ!」とウッディを抱きしめていたように、刹那的でもウッディがボニーにとっての大事なおもちゃだった時はあったはず。そうみれば、『トイ・ストーリー3』の結末が決して否定されたわけでもない、とも思うのだ。

賛否両論ポイント 2:自由意志を持ち、世界のどこかで暮らしているおもちゃたちの姿

移動遊園地でアクティブに人生を謳歌していたボー・ピープはこう言っていた。「子ども部屋にこだわる必要なんてない、だってこんなに広い世界があるのよ」と。これまでの『トイ・ストーリー』シリーズでは、この言葉通り子ども部屋が主な舞台であり、子どもに大切にされるおもちゃの幸福を描いてきたが、今回は「それ以外」の価値観を示しているのだ。

このことに対して、『トイ・ストーリー』でこれまで描かれてきたおもちゃの範疇から外れている、という意見もよくわかる。これまでは、遊んでくれる子どもがいてこそ、おもちゃたちの存在意義があると示されていたように思えるところもあったが、今回は世界のどこかでおもちゃたちが自由意志を持ち暮らしているのかもしれない、という、ちょっと怖くもなるような事実が提示されているとも言えるのだから。しかも、ウッディとボー・ピープの「これから」の活動は、望まない生き方をしているおもちゃたちの「解放運動」そのもの。ここにもまた底知れない怖さを覚えた方もいるだろう。



だが、それでも筆者は「子どもに大切されることがだけがおもちゃの幸せじゃない」と、それ以外の価値観を示している本作が好きだ。いなくなった、またはなくしてしまったおもちゃに対し、「君がいなくても、どこかで元気にやっているかも知れないよ」と、ちょっぴり心を軽くしてくれるような、おもちゃたちの姿を示してくれるのが嬉しかったのだ。

それでいて、これまでのシリーズの「子どもに大切にされる」価値観も否定していない。ギャビー・ギャビーは、ずっと大切にしてもらいたいと思っていた女の子のハーモニーに「いらない」と言われてしまったが、ウッディは迷子の子どものところに行こうとしている彼女に対して「君が言ったように、これが、おもちゃにとって一番大切なことなんだ」と言ってくれるのだから。この「君が言ったように」が重要だ。絶対に誰にでも当てはまるものではない、「人それぞれ」の価値観を肯定しているのだから。



賛否両論ポイント 3:無限の可能性からの、究極の選択

思えば『トイ・ストーリー』シリーズおよびピクサー作品の多くでは、ある1つの価値観に固執することの危険性を描いている。今回のウッディはフォーキーを救いボニーの元に返すことに躍起になり、仲間を危険に晒してしまう。「それだけ」を重視しすぎると他の大切なことに気付けなくなってしまう、というのも人生に普遍的にあることだろう。『トイ・ストーリー』シリーズでは「帰る場所」「子どもたちに大切にされること」の価値観が丹念に描かれていたので、おもちゃたちがそこに固執してしまう心理も胸に迫るようになっていた。

同時に、今までは思いもよらなかったことに、幸せや意義を感じられるということもまた、『トイ・ストーリー』シリーズおよびピクサー作品の多くで描かれている。例えば、今回のボー・ピープはアンティークショップ(店名が「セカンドチャンス」というのも意味深)で長年飾られて時間をムダにしたことを嘆いていたが、そこから見た光景がとても美しいことも語っていた。

バズは自分をおもちゃではなくスペースレンジャーだと思い込み、そうではない事実に絶望したこともあったが、おもちゃであることを認めた上でウッディの良き相棒になっていった。今回から登場するスタントマンの人形のデューク・カブーンは、テレビCMと違ってうまく飛べずに捨てられたことがトラウマになっていたが、実はしっかり飛べることで自己肯定感を持つこともできる、ちょうどバズと対になる存在でもあった。



そして、ウッディとバズが交わしたシリーズおなじみのセリフ「無限の彼方へ、さあ行くぞ(To infinity and beyond)」という「無限の可能性」を示して映画は終わる。ジェシーに保安官バッジを譲り、バズを含むおもちゃたちと別れ、これまでは友だちであったボー・ピープと共に人生を歩むパートナーになるという結末そのものが賛否両論を呼んでいるのだが、それはウッディが今まで固執していた価値観から解放され、本当の「内なる心」に従った結末だ。無限の可能性の中の1つから、ウッディがその究極的な選択をした(その先にもまた無限の可能性がある)ことも、また肯定したいのだ。

余談だが、再会したウッディとボー・ピープがお互いの状況に「持ち主はいない」「迷子」と全く同じことを同時に口にするものの、最後にウッディが「ひどい」、ボー・ピープが「最高じゃない!」と、そこだけ意見が食い違うというシーンがある。つまり、2人は似たもの同士であるが、今置かれた状況に対してだけ価値観の相違がある。そんな2人が価値観を共有しつつ、2人で自由な生き方をするのであれば、きっと彼らは幸せなのではないか、そう思えるのだ。

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