(C)2022「すずめの戸締まり」製作委員会

『すずめの戸締まり』新海誠監督の優しさが沁みる「10」の考察



5:叶えられなかったダイジンの願い

ダイジンは神様であると共に、鈴芽の「願い」を体現しているとも解釈できる。そのいちばんの理由は、初めて鈴芽の目の前に現れた時、痩せ細っていたはずのダイジンが、「ねぇ、うちの子になる?」と聞かれた途端に喋り出し、ふっくらとした体つきになっていたことである。


さらには、草太が要石になった後に鈴芽に「大っ嫌い!」と言われると、ダイジンは痩せ細ってしまう。しかも、最後に常世に行く直前に「後ろ戸にあるところへ案内してくれていた」とわかったダイジンへ「ありがとう!」と鈴芽が言った瞬間、またふっくらとした体つきになる。ダイジンは、明らかに鈴芽の気持ちによって変化する存在なのだ。(痩せ細ったダイジンは環と芹澤へ「うるさい!」と喋ったことはあったが、その後に鈴芽に「ねぇ、なんで喋らないの」と問われても答えないこともあった)

そして、鈴芽が環へ「私だっていたくて一緒にいたんじゃない!」「環さんが言ったんだよ!うちの子になれって!」と言った時、ダイジンは驚いて顔をこわばらせている。ダイジンは鈴芽から「うちの子になる?」と何気なく言われたからこそ鈴芽が好きになったのに対して、鈴芽は環から「うちの子になる?」と本気で言われることを望んでいなかった。そのような残酷な対比が、そこにはある。

ダイジンは最後に「すずめのこにはなれなかった」「すずめのてで(自分を)もとにもどして」と言って、本来の要石の姿に戻る。ダイジンは鈴芽にとって草太がどれだけ大切な存在であったがわかった、草太と共に生きたいという願いを受け取ったからこそ、ほとんど自己犠牲的にそうすることを望んだのだろう。

鈴芽のその願いのためには、要石に戻るしかない。自分は鈴芽の子どもになりたくてもなれないけど、そうするしかないんだ。それに、鈴芽だって、誰かの子どもになることを望んではいなかったんだから。そのように、ダイジンは思っていたのだろう。

 6:ダイジンは鈴芽の願いそのものかもしれない

そう考えると、改めてダイジンがかわいそうで、あまりに救われないとも思ってしまう。だが、ずっと要石であったダイジンにとって、その言葉を投げかけてくれた鈴芽と、5日間だけでも共に旅ができたことを、束の間でも幸せに感じていた、という解釈もできるだろう。

そして、筆者個人は、ダイジンは固有の自我や人格を持つ存在というよりも、やはり鈴芽の願いそのものだった、という説を推したい。


その根拠のひとつは、世界のあらゆる神は、逆説的ではあるが「人が存在していると考えたからこそ存在している」ということだ。日本では「八百万の神」という森羅万象に神を感じる古来の考え方があるし、はたまた動物に限らない無機物にも霊が宿っているという「アニミズム」の概念もある。ネコに姿を変えたダイジンは、そうした世界的にある神や霊を神に見立てた考えと同様、いや人格化した存在であり、やはり「願ったからこそ存在している」のではないか、と。

さらなる根拠は、マクドナルドのハッピーセットの、公式スピンオフ絵本『すずめといす』にもある。こちらでは鈴芽の幼少期の思い出が描かれていて、そこでは(草太の人格ではない)まだ4本脚のままだった子どもの椅子が、鈴芽と一緒に母の椿芽のために料理を作る姿が描かれている。そこで、鈴芽がどうして喋れるのか、歩けるのかと聞くと、椅子は「すずめが、ぼくをともだちだとおもってくれたからさ」と答えているのだ。


この絵本における椅子は、幼少時の鈴芽のイマジナリーフレンド(想像上で作り出した友達)でもあるのだろう。この時に椅子の言った「ともだちだとおもってくれた」ことと、後に大きくなった鈴芽が「うちの子にならない?」とダイジンに言ったことは、やはりリンクしているように思う。どちらも鈴芽がそう思ったから、そうなろうとする存在なのだ、と。

また、鈴芽も口では環へひどいことを言ってしまったし、過保護ぶりが重いと思っているのも事実ではあるけれど、潜在的には叔母の環の子どもになってもいい、好かれたい、という気持ちも同居していたのではないか。それが、鈴芽の子どもになりたいという、ダイジンの願いにも転換したようにも思えたのだ。

そう考えれば、要石に戻ったダイジンを憂わなくても大丈夫なのではないか。ダイジンは人格や自我を持っているというよりも、鈴芽自身、またはその願いが具現化した姿である、と思えば。それに、また、いつの日か、ダイジン(=鈴芽の願い)は姿を変えて、鈴芽のところに現れることもあるのかもしれない。

ちなみに、新海誠自身は、要石の正体については明確な設定はないことを前提にしつつ、ダイジンについて「子どもの閉じ師だったんじゃないかと思いながら脚本を書いていた」「元は人間だったこともあるのかもしれない」などとティーチインで語っていたこともある。前述してきたことは、筆者の個人的な「こうだったらいいな」という一方的な考察に過ぎない。観た人が、それぞれの思うダイジンの幸せや、またはその後(また以前)の物語を、想像してみるのもいいだろう。

【関連記事】ティーチインってなに?通常の映画試写会とどう違うの?

無料メールマガジン会員に登録すると、
続きをお読みいただけます。

無料のメールマガジン会員に登録すると、
すべての記事が制限なく閲覧でき、記事の保存機能などがご利用いただけます。

(C)2022「すずめの戸締まり」製作委員会

RANKING

SPONSORD

PICK UP!