『アントニオ猪木をさがして』猪木を知らない人にこそ観てほしい、その生きざま
「アントニオ猪木は、まだ生きているのではないか」
新日本プロレス設立50周年企画作品『アントニオ猪木をさがして』を、観終わった直後の感想だ。
ただただ子供の頃から筆者が憧れた、強く、熱く、時にカッコ悪く、泣きたいぐらいにカッコ良かった、あのアントニオ猪木に溢れていたからだ。
作中で使われた試合映像たち
©2023 「アントニオ猪木をさがして」製作委員会【写真:原 悦生】今や伝説となった、当時のボクシング世界ヘビー級チャンピオンであり、スーパースターであったモハメド・アリとの対決(1976)は、終始膠着した展開から、当時は“世紀の凡戦”と揶揄された。だが今この試合を観ると、ピリピリした緊張感に支配された掛け値なしの名勝負だと感じる。まだファンの“観る目”が肥えていなかった時代だ。猪木は、何十年も先を走っていた。
キムラ(腕絡み)で相手の腕を折ったアクラム・ペールワン戦(1976)。会場はペールワンの母国・パキスタンのカラチという完全なるアウェイの中で、客席に向かって「折ったぞ!」と絶叫する。そこにいたのは、いつものヒーローでもスーパースターでもなく、“鬼”だった。
プロレスは完全なる真剣勝負ではないかもしれないが、相手がガチを“仕掛けて”くるケースもある。その際に対応できない、“ケンカを買えない”レスラーは、以後舐められるだろう。対応できる。ケンカを買える。そんな次元を飛び越えて、“やり過ぎてしまう”のがアントニオ猪木だ。
52歳、引退へのカウントダウンに入った猪木が挑んだ、ビッグバン・ベイダー戦(1996)。190cm超え、170kgの規格外の体型ながら、ムーンサルト・プレスを決める若きフィジカル・モンスターに、三分の一ぐらいに見える猪木は、蹂躙され続ける。
特に、ハナから受け身を取らせる気がないかのような、急角度の投げっぱなしジャーマンで猪木が真っ逆さまに落とされた時、棚橋弘至は「死んだ」と思ったらしい。筆者も思った。
それはプロレスの枠を超え、完全に“殺しに行った”ような、「鍛えているから」とか「受け身が取れるから」とか、そんな次元を遥かに超えた「死んだなら死んだで仕方がない」と言った、そんな諦念さえも感じられる投げだった。
数々の名勝負の映像を振り返っているうちに、すでに「アントニオ猪木はこの世にいない」ということを、すっかり忘れてしまっていた。
それはおそらく、ここ数年ドキュメンタリー番組などで嫌というほど見せられた、闘病中の猪木の映像を一切使わなかったからだ。強く、カッコ良く、そして怖い、そんな猪木の姿「だけ」を見せつけられているうちに、筆者の中でアントニオ猪木は、まだ生きていることになっていた。
それならば、アントニオ猪木は今もどこかにいるはずだ。アントニオ猪木をさがさなければ。
ところで、ドラマパートは必要か?
©2023 「アントニオ猪木をさがして」製作委員会この作品は、過去の試合映像や関係者へのインタビューの合間に、ドラマパートが3本挿入されている。
予想はついていたが、ネットの声を聞く限り、「ドラマパートいらん!」という声が多かった。実は筆者自身も、ドラマパートが始まった時に「こういうのいらんねん」と思ったクチではある。
ドラマパートは、次の3本で構成されている。
- 「80年代の小学生編」
- 「90年代の高校生編」
- 「2000年代初頭の大人編」
これは筆者世代と完全に合致するため、「いらんねん」で済ますわけにはいかなくなった。
「小学生編」の主人公は、1984年度IWGP決勝での猪木VSハルク・ホーガンの対決を楽しみにしている。前年の対決で、猪木はホーガンのアックス・ボンバーで失神KO負けしているのだ。リベンジ・マッチである。
当時、猪木はヒーローだった。子供にとってヒーローとは、強く正しく必ず最後には勝つものだと信じていた。そのヒーローが舌を出して失神している絵面は相当にショッキングであり、筆者は翌日小学校を休んだ。
だからこそ、リベンジを願う主人公の気持ちは痛いほどわかる。わかり過ぎて同化してしまう。小学生の頃の自分を俯瞰で見ているような、奇妙な感覚に囚われてしまった。
「高校生編」を経て、「大人編」の主人公・安田顕が、全部持って行ってしまった。2000年代初頭に、いい年してうだつが上がらず登録派遣の肉体労働をしている主人公は、まさに当時の筆者自身だった。
そんな時に主人公が観て涙するのが、前述の猪木VSベイダー戦である。もう若くない猪木がボロボロに蹂躙されながらも立ち上がる様は、「自分自身を諦めてしまわないこと」を教えられる。
そして最後は、ズタボロの猪木が逆転の腕十字で勝ってしまうのだから、安田顕が号泣するのは当然だ。もちろん、当時の筆者も泣いた。すでにいい大人だったし、もう子供の頃のような純粋な目でプロレスを観てはいなかったけれど。
ドラマパートは、「猪木ドンピシャ世代」の感情移入を促すためだけのものではない。「それ以外の世代」に、「ドンピシャ世代」がどんな気持ちでアントニオ猪木を見ていたのか、いかにアントニオ猪木に勇気づけられていたのか、それを理解してもらうためにも、必要だったのだ。
真の猪木信者たち
©2023 「アントニオ猪木をさがして」製作委員会この映画の誠実な点は、ただの“賑やかし”の芸能人が出てこないことだ。
有田哲平(くりぃむしちゅー)も、神田伯山(講談師)も、安田顕(ドキュメントパートにも出演)も、本当に心の底から猪木を愛していたことが伝わる。
神田伯山は、「歯医者に行く時には、いつも『炎のファイター』を口ずさむ」と語っていた。よくわかる。筆者も、歯医者に行く時も注射をする時も、頭の中では『炎のファイター』が大音量でかかっている。
©2023 「アントニオ猪木をさがして」製作委員会
誰もが知っている猪木の入場テーマ『炎のファイター』には、理屈抜きに人間を勇気づけてしまう力がある。
猪木が身を引いた後の新日本プロレスを引っ張っていた棚橋弘至の、ある行動。この行動こそがこの映画のクライマックスであり、このシーンのために、この映画があったといっても過言ではない。そのシーンに立ち会った有田哲平は、必死に涙をこらえているように見えた。
アントニオ猪木を好きだった人は、どうせほっといてもこの映画を観るだろう。アントニオ猪木を知らない人たちにこそ、観てほしい映画だ。
(文:ハシマトシヒロ)
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