『風立ちぬ』を深く読み解く「10」のこと!
7:“魔の山”とは何か?
カルストプは、軽井沢のその場所を“魔の山”であると表現していました。これはトーマス・マンの小説の「魔の山」から取られており、“俗世とは切り離され時の止まった場所”の象徴としても使われているようです。この物語の終わりでは、主人公(名前がまさにカルストプ)は魔の山から低地へと降りていくも、そこで戦争が起こってしまう……という、まさに『風立ちぬ』の劇中の二郎のようにもなっていました。つまり、魔の山である軽井沢に二郎が来たのは「美しい飛行機を作るが(時代のせいで)それは必然的に人殺しの道具になってしまう」という因果から、一旦は離れることができたということも示しているのでしょう。もっとも、二郎がすっかり飛行機のことを忘れたわけではなく、墜落する軍用機の光景が脳裏に蘇ったり、残骸となった軍用機をただ見ているという光景も映し出されていたりもしましたが……。言うまでもなく、その魔の山から降りれば、再び二郎はまた軍用機を作らざるを得なくなるのです。(ちなみに、原作マンガの「風立ちぬ」において、「二郎は典型的な燃え尽き症候群だったのだ。戻るのに最低6ヶ月はかかる」とも書かれていました)
さらに、原作マンガの「風立ちぬ」において、宮崎駿は「ヨーロッパでは純度の高い空気と日光を求めてアルプスに高級療養所が作られた。もちろん貧乏人は入れない。これこそのトーマス・マンの「魔の山」舞台である。日本でも信州の高原に結核の療養所が作られ、小説や映画の舞台になった。堀辰雄の名作「風立ちぬ」もそれだ」とも注釈をつけています。つまり、終盤にヒロインである菜穂子が結核の治療のために“そこに居ざるを得なかった”療養所も、軽井沢と同じく“時の止まった場所”である魔の山としているのです。
菜穂子もまた、時の止まった場所である魔の山、それこそ(当時は死の病であった)結核が治ってまた二郎と一緒にいられるという希望のある未来へと向かうことはないであろう“死が蔓延している”療養所に行かざるを得なくなる……そんな残酷な事実も、この“魔の山”という言葉は示唆していたのかもしれません。
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