映画『ミスト』があのラストに至った「3つ」の大きな理由
おまけ その1:もともと考えていたラストとは違った!でもそれで良かったかも?
さて、そんな映画『ミスト』の衝撃の結末ですが、当初に想定していたラストとは違っていたりもします。実は、脚本も担当していたフランク・ダラボン監督が考えていた案では、デヴィッドの側を通り過ぎるトラックに乗っていたのは、子どもたちの命を救うことを最優先にしてスーパーの外へ出て行った女性だけではなかったのです。その「二台目」のトラックに乗る予定だったのは、作業員のジム、店長のバド、狂信者のカーモディ(本人は死んでいるが)の元信者たちなど、スーパーに残った人たちだったのだとか。しかし、俳優たちとエキストラたちはすでに役を演じ終えて現場を離れていたため、このアイデアを捨てることを余儀なくされたのだそうです。つまりは、元々はスーパーに残った人も生きていた事実をまざまざとデヴィッドに見せることで、より「スーパーから出ていくべきではなかった」という結末にする予定だったのです。
その方が良かった、という方もいるでしょうが、筆者は現状のラストのほうが納得できます。何しろ、スーパーに残った人の多くは狂信者のカーモディを信じきっており(そうではない人もいたかもしれませんが)、その中にはジェサップ二等兵を刺し殺した人もいます。そうであったはずなのに、スーパーに残った人たちを「最後に助かった」としてしまうと、デヴィッドたちが間違っていて、スーパーに残った人たちが正しいとさえ捉えられてしまう結末との齟齬が生じて、悪い意味で後味の悪さが生まれてしまったのではないでしょうか。
この映画で訴えられているのは、やはり不寛容と排他主義の恐ろしさ。デヴィッドたちもカーモディとその信奉者たちも、どちらも間違っていると筆者は思うのです。
おまけ その2:実は『ショーシャンクの空に』と描こうとしていることは同じ?
フランク・ダラボン監督は何しろ『ショーシャンクの空に』という(同じくスティーブン・キング原作の)映画史上に残る感動作を手がけていたので、その真逆のようなホラー映画『ミスト』の内容を観て「本当に同じ人が監督した映画なのか?」と思った方もいるでしょう。しかし、その両者が描こうとしていることは、実は「どんな時にも希望を失ってはならない」ということで一致しているようにも思えます。『ショーシャンクの空に』の主人公を絶望の淵まで追い込むサディスティックな作劇も、『ミスト』に通じていると言えるのではないでしょうか。
映画は得てして、ネガティブなものであればネガティブなりに、ポジティブなものであればポジティブなりに、作り手が同じメッセージを込めることも、受け手が主体的に考えることもできます。それこそが、映画に限らず創作物が示した「物語」に触れる大きな意義なのではないでしょうか。
ちなみに、原作者であるスティーブン・キングは映画『ミスト』に「心から恐怖を感じた」と言い、それを聞いたダラボン監督は「自分のキャリアの中で最も幸せな瞬間だった」と語っていたのだとか。それも含めてダラボン監督はやはりドSだとも思いますが、だからこそ観客に絶大なインパクトを残す、「絶対に忘れられない」『ミスト』や『ショーシャンクの空に』を作ることができた、とも言えるかもしれません。
参考:The Mist (2007) - Trivia - IMDb
(文:ヒナタカ)
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