『ゲド戦記』を深く読み解く「3つ」のポイント|なぜ父殺しをしたのか?宮崎吾朗が監督を務めた理由は?
3:“均衡が崩れた世界”が示すものとは何か?
劇中では、ハイタカは“均衡を崩そうとする動き”が世界で起きていると告げており、作物が枯れ、街では麻薬のようなものがはびこり、店では“まがいもの”の商品が売られるようになっています。この均衡が失われつつある世界が示しているものとは、何なのでしょうか。
これにも明確な答えはないのでしょうが、宮崎吾朗監督は「均衡とは何かが突出しないという状態であり、その均衡が進めば善悪の判断はほとんどなくなっていく。何かに一直線になりたい若者は、その世界では悩んでしまうんです」とも語っています。
アレンが父を刺したのも、竜が共食いを初め、数々の災厄が王国に告げられたその時でした。世界の均衡が崩れたからでこそ、今まで悩んでいたアレンは衝動を開放して(悪意を表出させて)父殺しをしてしまった、と言ってもよいでしょう。魔法使いのクモが望んでいた“不老不死”も、生き物たちが死に、また生まれるという均衡が保たれた生命のサイクルから逸脱するものです。
物語上ではクモを倒すことができましたが、それでも世界に均衡が訪れたかどうかは描かれていません。ただ、エンドロールでは、アレンとハイタカ、テルーとテナーはただただ生きるために畑や家の仕事をしていました。そこには、作中で幾度となく描かれていた(悪役のウサギや2人組のおばさんなどの)悪意はまったく表出せず、4人は笑いあって食事もしていました。
均衡が保たれた世界は、若者にとって(父に鬱積した気持ちを溜めこんでいたアレンのように)必ずしも歓迎できるものではないかもしれない。しかし、やはり均衡が崩れると不幸や悲劇、人間による悪意が表出してしまう。だからでこそ、人はなるべく均衡を保たれた世界を目指すべきではないか……。エンドロールの“ただ仕事をする”ということにも、小さなことからでも均衡を保たれた世界を目指すかのような、人間の気高さを感じるのです。
ちなみに、鈴木プロデューサーは「現在の“過保護に育てられている子どもたち”が、監視から逃れ、自由を手にしたい、自分を見つけたい、そういう時に、1つの道を指し示す映画になりうる」とも考えていたそうです。劇中でアレンは自らの闇の心と向き合い、そして大切な人のために戦うようになっていくのですから、確かにそのような映画になっていますね。
無料メールマガジン会員に登録すると、
続きをお読みいただけます。
無料のメールマガジン会員に登録すると、
すべての記事が制限なく閲覧でき、記事の保存機能などがご利用いただけます。
(c) 2006 Studio Ghibli・NDHDMT