『猫の恩返し』が公開された2002年、こんな時代だった
なぜなら、2002年の東京に住んでいたからである
筆者は2002年に群馬県から東京に出てきた。服飾の専門学校に通うためである。よって、当時の雰囲気はなんとなく覚えている。19歳のガキからすれば拉致被害者も、日経平均株価も、食品偽装も、イラク情勢も、なんとなーく「遠い国の出来事」で、自分の身の回りにあるものが世界の全てだった。2017年に公開された『レディ・バード』という素晴らしい映画があるが、本作もまた2002年を舞台にしている。主人公のクリスティン(シアーシャ・ローナン)は高校生で、田舎町を飛び出して「文化のある都会」に出たいと願っている。彼女はイラク情勢が緊迫するニュースを家でゴロゴロしながら観ているが、ちょうどそんな感じだ。
そんな「自分の」視点から当時の東京を思い出してみると、渋谷のスクランブル交差点は今よりもずっと汚なかった(なにせ路上喫煙ができた。千代田区で歩きタバコ禁止条例が初めて成立したのはこの年だ)。センター街では路上で当時は合法だったマジックマッシュルームが売られており、怪しげな外国人は今でも違法な物を取り扱っていた。
ツタヤ方面に踵を返し甘栗屋を左に。マックを通り過ぎてタワレコを右に曲がってガードを潜り、キャットストリートを抜けて表参道に差し掛かり下っていくと、GAP前にはあらゆる雑誌のスナップ、カットモデルのキャッチ、あるいは「そこに存在することがお洒落だと思っている」人々が陣取っていた。メイン通りから小道まで、ありとあらゆる筋まで人が溢れ、活気に満ちていた。
路線を変えて、下北沢は今でこそガールズバーなどが点在しているが、当時は未だサブカルに憧れる者の聖地、みたいなもんであり、ヴィレッジヴァンガードの店内の如く、細く入り組んだ道には洋服屋やレコード屋、本屋、飲食店などがひしめいていた。レディ・ジェーンには行ってみたかったが金がなかった。ときに、レディ・ジェーンの2階は賃貸物件になっており、7万5千円くらいで住めた。下北沢物件情報はさておき、高円寺も同様な雰囲気だったが「下北よりはやや夢を諦めている感」が心地よく、適当に生きていても許してくれるような寛大さがあった。
筆者の縄張りは東横線上だったので新宿はあまり行かなかったが、2003年から行われた歌舞伎町の浄化作戦にはギリギリ間に合った世代だ。浄化の足音は近づいて来ていたものの、クラブやライブハウスの「危ない感じ」はまだ若干残っていた。CLUB WIREのトイレに入っていたら「ウラァー! テメェ! パンクスのクセに鍵なんてかけてんじぇねぇよォォォォ!」の叫び声とともにスチールトゥのマーチンでドアをガッツンガッツン蹴られたのも良い思い出である。もちろん、ここにはとても書けない話もある。浄化作戦以降の新宿はつまらなくなったし、ある意味で悪化したことも多い。
さて、渋谷原宿下北高円寺新宿と出てきたし、一応は服飾専門学校(スタイリスト科)卒ということもあるので、ファッションに触れておこうとしたのだが、2002年のファッションはトレンドこそあれ、街単位で見てみたり、授業で定点観測をしていたりした身からすると非常に雑多だったと記憶している。じゃによって、ジャンルで区切るのは結構難しい。
これは映画も音楽も同じで、表通りから裏通りまで実に様々で、大小問わずコミュニティが形成されていた。2002年はまだYou Tubeは開設されておらず、Twitterどころかmixiもない。スター・ビーチはあった。が、それなのにどうやって人と繋がったり、コミュニティに出入りしていたのだろうと考えると、ちょっと不思議な気持ちになる。あくまで思い出補正の入った視点で、少なくとも一部はとするけれども、当時の東京はこのような空気感だった。
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