『さがす』冒頭1分で正座して一礼したくなる、とてつもない傑作
類似点とオリジナリティを「さがす」
ポスターデザインとコメント仕事について書くだけで、既にネットとしては結構な長文になってしまっているが、ここからが本題である。
片山慎三はポン・ジュノの助監督をつとめていたので、紹介される際に前置きとして使われることが多い。本作もまた「ポン・ジュノ風」、あるいは「ポン・ジュノテイストだが、しっかりとオリジナリティをもっている」と多くの人が評価するはずだ。
だが目配せは韓国映画だけではない。一例として、時間軸の設定や後半の怒涛の展開はポン・ジュノではなく、どちらかというとタランティーノに近い。
とはいえ、確かに本作はポン・ジュノ、および骨太な韓国映画の影響を多分に感じられ、いくらでも類似点を見出すことができる。よって韓国に絞って話しを進めるが、そのクオリティは「影響を受けて作りました」「オマージュしてます」なんてレベルではなく、近年だと2016年の韓国映画ラインナップに誇張無く匹敵している。
2016年といえば、『哭声/コクソン』『お嬢さん』『アシュラ』である。とんでもないが、ここに『さがす』をポンと置いても違和感はない。
今「いくらでも類似点を見出すことができる」と書いたが、完全なるポン・ジュノマナーというより、『さがす』は総体として「むちゃくちゃ面白い骨太韓国映画」の雰囲気に満ちている。
その結果、佐藤二朗がソン・ガンホに見えてくるわ、清水尋也の顔つきは韓国映画に出てくるシリアルキラーを合成したようなサイコパスっぷりだわ、伊東蒼はキム・ダミばりの存在感だわと、今観ているのは日本映画なのか、それとも韓国映画なのかとシミュラクラを起こしてしまうほどだ。
だがそのなかでも、片山慎三は鮮やかに自分の色を付けてみせる。佐藤二朗はポン・ジュノ作品のソン・ガンホよりも抑えた演技の内に「誰しも持っている」狂気を秘める。必要以上に喋らせず、顔で語らせるのも良い。彼のスキルに対してはもちろん、観客への信頼すら感じられるだろう。多段的なサスペンスが展開される本作において、この信頼感はハーネスのように機能しており、観客は物語から落下することなくエンターテイメントを楽しめる。
佐藤二朗のみならず、本作は無闇矢鱈に言葉で説明しない。顔で語らせる手腕もさすがだが、何より「間」が心地よい。これは韓国映画には見られないオリジナリティだろう。言ってしまえばお笑いや落語の間に近く、最適解としては岡林信康のMCの間に近似している。この緻密に配置された間によって、サスペンスやおかしみが強化される。北野武に近いといえば近いが、フランス産コメディの趣も感じ取れる。
かたや清水尋也演じる名無しは、市橋達也が逃亡劇を繰り広げたリンゼイ・アン・ホーカー殺害事件、クーラーボックスに死体を詰めた座間9人殺害事件、そして他人の窒息と白い靴下に執着した自殺サイト殺人事件など、それぞれの犯人像をミックスさせたようなキャラクターになっている。韓国サイコパスシリアルキラーっぽくありつつも、その実像は純国産シリアルキラーで、それぞれの事件がまだ記憶に新しいことから、日本の物語であることを強く意識させる。
登場人物以外にも類似点は多い。例えば「汚し」のテクニックは完全にポン・ジュノのそれに近い。ポン・ジュノはタイルや便器の汚し方が異常に巧いし、空間に匂い立つような生活の痕跡を見事につけてみせる。
これは片山も同様で、前作『岬の兄妹』の部屋をはじめとして、本作では智と楓が住む家でもまた、2人が何十年もそこに住んでいたかのような時代がつき、リアリティを構築している。名無しが潜伏するアパートの一室も素晴らしい。生活感を想起させるものが溢れているのに全く生活感がない。無造作に置かれたクーラーボックスは中身を提示せずとも、観客には容易に想像できる。
さらに「汚し」は人にまで及んでおり、各人のスタイリングも自然だ。無茶苦茶に貧乏でズボラな人間なのに、白シャツにシミ・シワひとつない、などという非現実的なルックは1つたりとも無い。
次に脚本についてだが、本作は片山慎三、小寺和久、高田亮の3人体制で書かれている。監督いわく「エンターテイメント性や商業性をより求められている気がした。もう少し作家性の強い方向で考えていたのでその差を感じた。もし自分1人でやっていたら、もっと難解で残虐な方向になっていたと思う」そうで、そちらの方向も観てみたかったなと贅沢な思いももちつつ、エンターテイメント性とサスペンスのバランス感覚でいえば、3人体制にして大正解だと感じる。
無論、3人で書いたがために片山慎三のテイストが薄くなったわけではない。むしろより観客に伝わりやすくなっているし、重めの素材を扱いながらもヌケの良い仕上がりになっているのもプラスだろう。
また「商業映画でもここまでやれるのだ(やっていいのだ)」と周知してくれた点に関しては、万の言葉を費やして称賛されるべきだろう。今後、本作のような映画がもっと作られ、より予算が費やされるきっかけとなれば、こんなに素晴らしいことはないし、逆にこの1本で流れが止まるとしたら、日本映画に未来はない。
さらっと書くが劇伴も素晴らしい。担当した髙位妃楊子は『岬の兄妹』にも参加している。劇中、重要なシーンでかかるクラシック曲の演奏も行っているそうだが、それ以外にも細かな音作りが丁寧で、アベレージが高く、現代対応かつ「のこる」仕事をしている。韓国映画は例え傑作だとしても、なぜか劇伴が凡庸な作品が多いので、この点では凌駕していると言っていいだろう。
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