<らんまん・関東大震災・練馬編>25週~最終週までの解説/考察/感想まとめ【※ネタバレあり】
第122回のレビュー
この雪の 気残るときに いざゆかな山橘の実の照るを見む
大伴家持
自分の植物の研究が神社合祀反対につながることになるため、大学を辞めることにする万太郎(神木隆之介)は徳永(田中哲司)に伝えに行きます。
徳永が「残念だが今学期限りで…」とくびを宣告する前に、辞表を出す万太郎。ここで感じたのは、万太郎が徳永に辞めさせられたという事実にならないように気を使ったのかなということ。大学の圧を受けている徳永の気苦労を慮って、これ以上悪者にさせたくない気持ちの現れではないかと。それと、あくまで自分の意思であるという矜持も。
辞表をもらった徳永は、まだ道があると引き止めますが、万太郎の意思は変わりません。
すると、徳永は「この雪の 気残るときに いざゆかな」と短歌の上の句を投げます。
「山橘の実の照るを見む」と返す万太郎。
出会い(というかふたりの心が通ったとき)も万葉集でした。徳永の芯は変わっていない。
最高の送る言葉。雪の消えないうちに山橘の実を見に行こう、燃える思いが消えないうちに
旅立とうというふうに感じます。いや、むしろ、万太郎の炎はますます燃え盛っています。
それは彼の書いたツチトリモチの図に現れます。
徳永も褒めるし、野宮(亀田佳明)も「生きてるようだ」と感心します。
植物研究への思いが強まれば強まるほど、万太郎の絵の実力も上がっていく。
万太郎のやってることは、植物を採集して、研究して、図にして、書籍化するということの繰り返しで、終始一貫しているため、彼の変化を感じにくいですが(最近だいぶ老けてきてはいますが)、絵の力がぐんぐん上がっていくことで、万太郎の能力、および人間性が高まっていくこととして見せれば、説得力ががぜん増します。
やはり忘れてはいけないのは、絵の力が、モデルの牧野富太郎を、超一級の植物研究家にしたことなのです。
南方熊楠が積極的に反対活動をし、その運動は広がり、翌年(明治37年?)、神社の一部は保全されることに。
神社の合祀の問題は概ね、第121回で、万太郎の子どもたちが言っていたとおり。自然によって守られているものが失われてしまう。ほかに、神社という民衆の集まる場、拠り所がなくなってしまうという問題もあります。神社というのは祭りがあったり、憩いの場だったりしますから、それがなくなってしまうのは、近隣の人たちにとって損失です。
なぜ、万太郎は合祀に反対したのか。その森に生息する植物を守りたいという気持ちは存分に伝わってきます。それとは別に、彼の考えの根本ーー植物にはすべて名前がある、ことも大きく関わっていると感じます。
神社を大小で分けて、大きなところに小さいものを統合してしまうのは、植物を大雑把に分けることと同じです。小さくても神社ひとつひとつに名前も役割も、その神社を大事にする人もいます。権力が大雑把に、力を持たない者を十把一絡げにしてしまうことへの抵抗もあったのではないでしょうか。
個を大事にする万太郎の同志・佑一郎(中村蒼)が、万太郎と入れ替えに大学に勤めることになりますが、佑一郎ははやくも大学の派閥主義に嫌気を感じています。大学内や会食などで作られるコネではなく、現場での行動がすべてと考える佑一郎。こんな人ばかりだといいのに。
難しいことはさておき、千歳(遠藤さくら)と虎鉄(濵田龍臣)が結婚。家族だけの質素な祝いだけれど、花嫁衣裳は立派なもの。寿恵子(浜辺美波)が質屋から出してきたのか、もともとこれだけは質屋に出さなかったのか……。
※この記事は「らんまん」の各話を1つにまとめたものです。
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