『ハウルの動く城』を深く読み解く「8つ」のポイント
7:終盤の展開のめちゃくちゃさは宮崎駿監督も認めていた?
『ハウルの動く城』は“訳がわからない”“物語が支離滅裂だ”などと言われてしまうこともよくあります。筆者も正直に申し上げて「終盤にかけて物語がちぐはぐになり、まとまりきれていない」と観るたびに思ってしまいます。
例えば、終盤にソフィーは「私達がここにいる限りハウルは戦うわ」と言って“引っ越し”をしようとしたために動く城はバラバラになってしまうのですが、そのすぐ後にソフィーはカルシファーに「ハウルの所へ行きたいの、お城を動かして」とさっきと正反対のことを言っているのです。ソフィーはハウルのいるところから離れたいのか?それとも近くに行きたいのか?ていうかソフィーのせいでお城が崩壊しちゃっているじゃん!と、どうにも納得できないのです(カルシファーにもこのソフィーの行動はツッコまれていますが)。
前述した「ハッピーエンドってわけね」も、おとぎ話の皮肉にしたって唐突に思えますし、原作小説ではほとんど書かれていなかった戦争という要素も「このバカげた戦争を終わらせましょう」や「あなた(王子になったカカシのカブ)はお国に帰って戦争でもやめさせなさいな」となどと語られただけで終わっています。
宮崎駿監督は現実における(アメリカ同時多発テロから勃発した)イラク戦争に本作が強い影響を受けていることも明言しているのですが、この終わらせ方では戦争という題材を中途半端に扱っているという印象をどうしても持ってしまいました。これも“戦争はそうした誰かの簡単な行動で、あっけなく収束してしまえる”という皮肉なのかもしれません……。
また、ラストでは空を飛ぶ城の下を艦隊が逆方向に飛んでおり、また別の戦争が始まってしまっていることが示されてもいます。これもまた、戦争が(あっけなく終わるだけでなく)あっけなく始まってもしまうという皮肉に思えます。
実は宮崎駿監督自身も、『ハウルの動く城』は自身の作品の中でも特に難しい作品であったと語っていました。「難しいテーマだから、悪役をやっつけて終わり、主人公がニッコリして終わり、ではすまなくなった。深いところにテーマを探るうちに通常の娯楽映画の枠組みに構っていられなくなり、結果、非常にややこしい作品になった」などと……。
つまりは、深いテーマ(“老い”や“戦争”など)を重視するあまり、勧善懲悪的な、起承転結のある物語にどうしても収まらなくなった……と宮崎駿監督も認めているところもあるのです。終盤が特に唐突で、すんなりと納得しにくい展開になったのは、そのためなのでしょう。
ちなみに、宮崎駿監督が文字としての脚本やシナリオを書かないで、絵コンテを脚本として膨らませて製作していることは有名ですが、今回は特にその絵コンテの製作において“いろいろな話が次々と立ち上がって行くけど一向に収束に向かわなかった”ため、鈴木敏夫プロデューサーはかなりの不安を覚えていたのだとか。製作業務担当の野中晋輔氏は「起承転結じゃなく、起と承がずっと続いている」とも表現していたこともあり、果ては宮崎駿監督のほうから「鈴木さん、話がまとまらないよ、どうしよう」と相談されたのだとか。
その困りきった宮崎駿監督を見て、鈴木敏夫プロデューサーは『グッドナイト・ムーン』という映画のあらすじを紹介したのだそうです。これが(おそらくは)きっかけとなり、終盤は「敵だったはずの荒地の魔女も犬のヒンも一緒にみんなで暮らす」というホームドラマ的な収束を見せていったのだとか。よくも悪くも、こんな展開は“敵をやっつけて終わり”な勧善懲悪な物語では見たことがないですよね。
うがった見かたをすれば、こうした『ハウルの動く城』の製作過程は、煙突や屋根や大砲が無秩序に付けられて(しかもヨタヨタと何とか移動している)劇中の“動く城”そのものにも思えてきます。“建て増し”していくような物語作りは本作の欠点である一方、ある意味では大きな魅力であると言えるのかもしれません。
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