<ちむどんどん・東京編(2)>51回~75回の解説/考察/感想まとめ【※ネタバレあり】
第73回:それぞれの戦争の時代にさかのぼってゆく
第73回の謎は3つ。ひとつはこれまでいつでも話せたであろう優子の過去ーー戦争体験をこの時期ーー暢子(黒島結菜)が家を出て6年ほど経過、24歳くらいになったときに語り始めたのか。もうひとつは、比嘉家のみならず、賢三(大森南朋)の叔母・房子(原田美枝子)の過去と、鶴見の沖縄県人会の会長・三郎(片岡鶴太郎)の過去の話をわずか15分のなかにぎゅぎゅっと盛り込んでいるのか。
3つ目は、ぎゅぎゅっと詰め込むために、重い話を回想で一気に語ってしまうわけ。
これらのタイミングにはウークイという死者を送る年に一度の行事の日だからみんなが思い返すという理由はつきます。
年に一回あるなかで”今”であった必然性といえば、子供たちが大人の階段をのぼりはじめたからでしょう。
恋に疎かった暢子が結婚を意識しはじめ、体の弱かった歌子(上白石萌歌)が民謡歌手になる決意をしたり……。子供たちが、賢三が作り、亡き後、絶対に売らずに優子が守り抜いた家を巣立っていく。そのタイミングだったのではないでしょうか。
もうなかなか家族全員が顔を揃えることもないと感じた優子が、全員そろったこのタイミング、いまこそ話そうと思ってもおかしくはありません。
戦争については嘉手刈(津嘉山正種)も言っていたように、語りたくない人もいいます。戦争に限ったことではなく、一般論としても、あるとき、ふと、昔の話を祖父が孫に、父母が子供にすることはあるものです。何かの記念日や、区切りのとききっかけもあるだろうし、ほんとうにたまたまということもあります。
なかには、話を聞かないままになってしまうことだってあります。筆者も祖父母の話を聞かなかったことを後悔しましたが、いまさら祖父の残した回想録を読んでいます。
房子が二ツ橋(高嶋政伸 たかはふたごだか)に、三郎は田良島(山中崇)に話はじめます。房子と賢三の関係はすでに語られてはいたものの、田良島の兄が沖縄戦で亡くなっていて、だからこそ「鉄の暴風」(沖縄戦時、沖縄が米軍から約3ヶ月に渡って激しく攻撃されたこと)のことを記事にしたかったことを語りだし、三郎は戦後シベリアに収容されていた壮絶な体験を語ります。
運命的なもので、暢子がたまたまアッラ・フォンターナに来たことですべての縁が繋がったという、因縁話的なこと。でも、これにも理屈をつけることは可能です。
戦争と戦争で亡くなった人たちの記憶を抱えている人たちは比嘉一家だけではありません。無数の人たちがそれぞれの記憶を持っています。シベリアから帰れない人たちのこともそのひとつ。ひとつではなくいくつもの経験を描きたかったのではないでしょうか。
3つ目の、回想形式にしたこと。この時代の物語を作っても見応えがありそうなところそうしないのは、「ちむどんどん」が当時を知る者目線の物語ではなく、知らない若い世代の目線の物語だからです。
これまた嘉手刈が言っていたことで、過去を知る者がいなくなっていきます。これからどうやって伝えていくかと考えたとき、物語として過去の体験を描くのではなく、物語ではない実話なのだと若い世代が”聞いて、識る”ことを描くことが重要になっていきます。
「ちむどんどん」は「識る」ことを自分事にする物語なのです。
「平家物語」に代表される「語りもの」(口伝)というジャンルはあって、誰かが物語化して多くの人に伝えてきたことが、長く残っています。暢子や和彦(宮沢氷魚)が大人たちから語り聞いて、それをまた伝えていかなくてはならない。それが暢子たちの運命なのでしょう。
壮絶な体験を語る優子を演じる仲間由紀恵さんは、沖縄生まれで、沖縄の前身・琉球の物語の主人公も演じたことがあり、沖縄の文化・琉球舞踊も習っていたかただから、抑制された口調に様々な感情がぎゅっと詰まっているようで説得力がありました。
そして、賢三が子供たちに自分が正しいと信じたことを貫くように語ったことには深い意味があるようです。
ちなみに津嘉山正種さんも沖縄出身、「津嘉山正種ひとり語り『沖縄の魂~瀬長亀次郎物語』」や「津嘉山正種ひとり語り『戦世(いくさゆう)を語る』」などを上演し歴史を語り継いでいます。
※この記事は「ちむどんどん」の各話を1つにまとめたものです。
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